
熊谷守一
九十歳を過ぎた老人が、三十坪に満たない自宅の庭に腹ばいになって、蟻の行列を何時間もながめている。熊谷守一(1880〜1977)の晩年は、その一点にほとんど尽きる。蟻は歩くとき左の二番目の足から動くのだと、彼は真顔で語った。写生旅行に出られなくなった体で、草の根もとや猫の寝返り、夕立あとの水たまりを、地面すれすれから見つめ続けた二十年だった。
岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)の山あいに生まれた。1900年に東京美術学校西洋画科へ入り、黒田清輝と藤島武二に学ぶ。同じ教室に青木繁や山下新太郎がいた。若き日の代表作《蝋燭》(1909年)は、真っ暗な闇のなかで蝋燭一本だけが自分の顔を下から照らす自画像で、第三回文展に入った。まだ、光と闇のドラマに惹かれていた頃の絵である。
1915年、第二回二科展に《女》を出して以降、発表の場を二科会に移した。ここから絵つきが変わっていく。かたちは削がれ、太い輪郭線が対象をぐるりと囲い、奥行きは捨てられ、画面は色面の連なりになった。だがその道のりは平坦ではない。赤貧のなか五人の子のうち三人を失い、医者に診せられぬまま肺炎で逝った三歳の次男を描いた《陽の死んだ日》(1928年)は、本人が「鬼のような絵になった」と後ずさりしたほど張りつめている。妻からは幾度も「絵を描いてください」と催促された、食うにも困る暮らしだった。
火葬場からの帰り道の家族を描いた《ヤキバノカエリ》(1948〜56年)を経て、晩年の画風にたどり着く。《白猫》(1959年)、《岩殿山》(1965年)、《芍薬》(1973年)、《アゲ羽蝶》(1976年、豊島区立熊谷守一美術館蔵)——単純化の果てに、かえって生きものの息づかいが立ちのぼる。1938年からは墨絵と書にも手を広げ、たっぷり肥えた筆で猫や虫、平仮名の名を書きつけた。資産家の木村定三が作品をまとめて買い支えたことが、忘れられかけていた画家を世に押し返す。
1956年、七十六歳で軽い脳卒中に倒れてからは、ほとんど家と庭を出なかった。昼は庭で過ごし、夜のアトリエで数時間だけ筆をとる。「画壇の仙人」と呼ばれた。1967年の文化勲章の内示は、人が押しかけて困るからと辞退し、1972年の勲三等も断った。1977年8月1日、東京で没した。作品は愛知県美術館、岐阜県美術館、豊島区立熊谷守一美術館、地元の熊谷守一つけち記念館などに収まっている。
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