
ミース・ファン・デル・ローエ
石工の息子として、アーヘンの石切場の匂いの中で育った。建築学校には通っていない。父の仕事場で石を削り、図面の代わりに現物の材料の重さと目地の通り方を体に叩き込んだ。ベルリンに出てからは家具デザイナーのブルーノ・パウルの工房、続いてペーター・ベーレンスの設計事務所で修業する。この事務所には同時期に若きヴァルター・グロピウスやル・コルビュジエも出入りしており、20世紀建築を作ることになる面々が同じ製図台を囲んでいたことになる。
1920年代、まだ実作の少ない段階で摩天楼のガラス塔案やレンガ造田園住宅案を次々と発表し、構造と皮膜だけで空間を成立させる方向へ急速に思考を煮詰めていった。その到達点が1929年のバルセロナ万博ドイツ館だ。屋根を支えるだけの十字断面の柱、薄い大理石の壁が空間を仕切りながらも閉じ切らない――「ユニバーサル・スペース」の原型がここに立ち上がる。館内に置かれた《バルセロナチェア》は建築とともに設計され、今も家具の古典として生き続けている。翌年のトゥーゲントハット邸(ブルノ)でも、可動式のガラス壁とオニキスの間仕切りで同じ思想を住宅の尺度に落とし込んだ。
1930年、経営難のバウハウスの三代目校長を引き受けるが、ナチスの圧力で3年後には自ら学校を閉じる決断を下すことになる。仕事の少ないドイツに見切りをつけ、1937年にアメリカへ渡った。シカゴのアーマー・インスティテュート(現IIT)で建築学科長に就任し、キャンパス全体の設計を任される。鉄骨とガラスのモジュールを反復するクラウン・ホールは、彼の教育思想そのものを建物にしたようなものだ。
住宅では、シカゴ郊外の《ファンズワース邸》で構造をぎりぎりまで消し去り、白い鉄骨のフレームだけがガラス箱を宙に持ち上げているような住まいを実現した。都市の高層建築では、フィリップ・ジョンソンと組んだニューヨークの《シーグラム・ビル》がひとつの規範になる。ブロンズのマリオンを立て、外壁と構造の関係を精緻に見せる手法は、以後の商業建築が繰り返し模倣することになった。
「Less is more(より少ないことは、より豊かなことである)」「God is in the details(神は細部に宿る)」という言葉は、装飾を削ぎ落とす態度であると同時に、削ぎ落とした先に残るディテールへの異様なこだわりを言い当てている。柱の断面、ガラスの目地、床と壁の取り合い――そのひとつひとつを吟味し尽くす仕事ぶりは、少年時代に石を削っていた手の記憶と地続きだったのかもしれない。国際様式(インターナショナル・スタイル)を体現した建築家として、戦後世界のオフィスビルの姿を決定づけた。
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