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葛飾為斎

葛飾為斎

かつしか いさいKatsushika Isai
3 作品

葛飾為斎は浅草蔵前に住んだころ、扇や短冊に絵を描いて売り、かろうじて暮らしていたという。井上和雄の「浮世絵師伝」(昭和6年(1931年))は、その絵を、落款を隠せば師の葛飾北斎とほとんど見分けがつかないと評している。

為斎は文政4年(1821年)に生まれた。姓は清水、通称は宗次で、酔桜軒・酔桜楼と号した。北斎に学び、錦絵や本の挿絵、肉筆画を描いた。飯島虚心の「葛飾北斎伝」(明治26年(1893年))には、北斎晩年の門人だろうとある。

挿絵では戯作者の松亭金水と組んだ。山東京伝の読本「善知安方忠義伝」(文化3年(1806年)刊)の続きを金水が書き、為斎が2編に絵を付けた(嘉永2年(1849年))。曲亭馬琴が6編まで出した「朝夷巡島記」も、金水が7編と8編を書き継ぎ、為斎が挿絵を描いた。

嘉永5年(1852年)には、測量書「量地図説」の画も手がけている。

北斎の没後は、少なくとも2回、信濃の小布施に滞在した。小布施では、晩年の北斎を招いた豪農の高井鴻山と交わった。鴻山の帳面には、江戸へ戻る為斎に「穀岩」から預かった金1両2分の餞別を渡した記録がある。安政5年(1858年)のこととみられる。

万延元年(1860年)春には、鴻山と墨画の二曲屏風を合作した。為斎は梅の幹を描き、「庚申孟春 宗外写意」と署している。北信濃の信濃町にある雲龍寺には、一弦琴を弾く玉巵と龍を描いた為斎の六曲屏風《玉巵弾琴図》が残り、町の文化財となっている。

横浜開港のころ、ある商人が為斎に絵を描かせて外国人に売ると評判がよく、以後はもっぱら為斎に頼んだという。「浮世絵師伝」にある話だが、研究者の久保田一洋は出所が定かでないと断っている。

絵を学ぶ人のための本も残した。万物図解為斎画式 初編の序は元治元年(1864年)に、洋学者の柳河春三が別の名で書いた。「花鳥山水図式」は全5編の小さな横本で、初編には山水や花鳥のほか、虫や魚、野菜、人物まで収める。

明治13年(1880年)6月、為斎は60歳で没した。翌年、「花鳥山水図式」は5編を2冊にまとめて再刊され、刊記の画工名には「故 葛飾為齋」と刷られた。同じころ、絵本「山水花鳥早引漫画」も「葛飾為斎遺稿」と銘打って出ている。

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