
葛飾北斎
九十年の生涯で三十回名を変え、九十三回引っ越し、死の床で「天があと五年の命をくれたなら、真の画工になれたものを」と嘆いた——葛飾北斎(1760〜1849)は、江戸が生んだ最も貪欲な絵の求道者である。
本所割下水の生まれ。十九歳で勝川春章に入門し、春朗の号で役者絵から出発した。勝川派を離れてからは俵屋宗理の号で摺物と狂歌本を手がけ、読本ブームが来れば曲亭馬琴『椿説弓張月』の挿絵で剣戟と波濤を、絵手本の時代が来れば《北斎漫画》全十五編で森羅万象を描いた。狩野も土佐も琳派も洋風画も、北斎にとっては使える道具に過ぎなかった。
そして七十歳を過ぎてから、代表作が来る。冨嶽三十六景(1831年頃)である。輸入顔料ベロ藍の青を基調に、あらゆる土地と生業と天候ごしに富士を描いたこの揃物は、風景を浮世絵の主役に押し上げた。富嶽三十六景 神奈川沖浪裏の大波——春朗期から四十年、波の形を追い続けた末の到達点——は、いまや地球上で最も広く複製された日本の図像である。富嶽三十六景 凱風快晴の赤富士、富嶽三十六景 山下白雨の黒富士、富嶽三十六景 甲州石班沢の投網。ひとつの山を無限に変奏するこの方法が、のちのモネの連作を準備したという指摘もある。
晩年は版画を離れて肉筆に没頭し、信州小布施の豪農・高井鴻山のもとへ旅しては祭屋台の天井に怒濤や鳳凰を描いた。数え九十歳の絶筆と伝わる富士越龍図では、墨の龍が富士を越えて天へ昇っていく。傍らには娘の葛飾応為(お栄)——「美人画では自分も敵わない」と北斎に言わしめた画才が、最晩年の制作を支えていた。
『北斎漫画』はパリで版画家ブラックモンに「発見」されてジャポニスムの引き金となり、ドビュッシーは交響詩《海》の初版譜の表紙に神奈川沖浪裏を選んだ。画狂老人卍——最後の号のとおり絵に狂ったまま世を去った老人は、死後、世界で最も有名な日本の画家になった。
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