
バーネット・ニューマン
バーネット・ニューマン(1905〜1970)は、広い色面と垂直の帯で知られる、アメリカの抽象表現主義の画家である。のちに「ジップ」と呼ばれるこの帯が、彼の絵画を特徴づける。ニューマンは観客に、大きな絵の近くに立ち、その前を歩きながら、作品を眺める「対象」ではなく「場所」として見るよう求めた。
ニューヨークのポーランド系ユダヤ移民の家庭に生まれ、ニューヨーク市立大学で哲学を学んだ。在学中からアート・スチューデンツ・リーグにも通い、父の衣料品会社や公立学校で働きながら絵を描いていた。しかし、1930年代の作品は自ら処分している。一時は絵をやめ、植物学と鳥類学を学んだ。制作を再開したのは1944〜45年のことで、当時は画家としてよりも、文章の執筆や展覧会の企画で知られる存在だった。
画家としての転機は、1948年1月29日に訪れた。43歳の誕生日に生まれた《Onement I》である。カンヴァスに縦に貼ったマスキングテープを絵具で覆い、そのまま剥がさずに残した。ニューマン自身、この作品に始まる連作によって、自分の様式に到達したと考えていた。同じ年に書いた論文「崇高はいま」では、アメリカの画家たちがヨーロッパ文化の重みから離れ、崇高なものへの欲求を取り戻しつつあると論じている。
ただし、その絵がすぐに受け入れられたわけではない。1950年の初個展では酷評も受け、翌1951年の個展を最後に、ニューヨークでの個展は1959年まで途絶えた。絵が売れ始めたのは1950年代末になってからで、それまでの生活を主に支えていたのは、公立学校の教員だった妻アナリーの給料だった。
1957年、ニューマンは心臓発作を起こした。その前の2年間は、絵を1点も完成させられずにいた。発作のあとに取りかかったのが、連作「十字架の道行き」である。副題は「レマ・サバクタニ(わが神、なにゆえ我を見捨てたまう)」。1958年から1966年にかけて制作した15点は、1966年にグッゲンハイム美術館でそろって公開された。2015年には滋賀県のMiho Museumでも展示されている。
1960年代には、フランク・ステラやドナルド・ジャッドら若い作家たちが、ニューマンを師とも伝説とも仰ぐようになった。ミニマリズムの作家たちは、まっすぐな縁と抑えた画面に、自分たちが目指す非人称的な表現の拠りどころを見いだした。
1968年の《アンナの光》は、1965年に没した母アンナにちなんで名づけられた。日本では川村記念美術館が所蔵し、2008年にはこの作品のためだけの展示室を設けている。2010年には《アンナの光》を中心に約30点を集め、国内初のニューマン展を開催した。しかし、同作は2013年に売却された。現在も日本で見ることのできるニューマンの作品には、大阪の国立国際美術館が所蔵する《夜の女王 I》(1951年)がある。
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