
八大山人
明の皇族に連なる血筋に生まれ、名を朱耷といった。十九歳のとき明が滅び、清の軍が南昌に迫る。王族の子という出自そのものが命取りになりかねない時代に、彼は仏門に逃げ込むようにして出家し、やがて還俗しては道士を名乗り、晩年になって「八大山人」という号を用いるようになる。この号を続け書きすると「哭之」とも「笑之」とも読めるという説があり、本人が意図したかどうかは定かでないが、泣くことと笑うことの境目を生きた人物にはふさわしい話だ。実際、伝えられる逸話には常軌を逸したものが多い。酒に酔うと大声で笑い出し、次の瞬間には慟哭する。口を利かなくなった時期もあれば、寺の門に「啞」の字を貼って沈黙を貫いた時期もある。狂人と見なされたが、その振る舞いの奥に亡国の哀しみが張り付いていたことは、絵を見れば疑いようがない。
代表作《河上花図巻》や、目玉をぐいと上に寄せて白眼で世を睨む鳥や魚を描いた一連の作品は、彼の画風を端的に語る。輪郭線をほとんど使わず、墨の濃淡と筆の勢いだけで対象の骨格を浮かび上がらせる。石は今にも転がり落ちそうな危うい姿勢で描かれ、蓮の葉は大胆な滲みで広がる。誰かに師事して技術を積んだというより、徐渭の奔放な写意の系譜を独りで引き継ぎ、さらに先鋭化させたと言うほうが近い。同時代に同じ清初四僧と呼ばれた石涛とは親交があり、互いの画に賛を寄せ合う関係にあった。
生前は奇人としてしか理解されなかったが、二十世紀に入って呉昌碩や斉白石、さらには近代西洋の画家たちまでもがその筆の速度と余白の使い方に驚嘆し、中国水墨画の枠を超えた再評価が進んだ。亡国の遺民が抱えた孤独と諧謔が、三百年の時を隔てて別の言語の絵描きたちの目にも新しく映ったのだ。
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