牧谿
法名を法常、蜀の生まれと伝わる禅僧で、杭州六通寺に住した。「牧谿」はその号である。南宋末、世が元に呑まれていく不穏な時代の空気のなかで、筆を執っては手を止め、また執る――そんな呼吸そのものを絵にしたような画僧だった。
得意としたのは水墨。輪郭線で囲って塗るのではなく、墨の滲みと擦れだけで柿の実の重みや猿の毛並みを立ち上がらせる。代表作《観音猿鶴図》は観音・猿・鶴の三幅対で、白衣の観音の静けさと、木にすがる母猿子猿のなまなましい体温が並んで置かれている。《六柿図》はさらに徹底していて、大小六つの柿を並べただけの絵でありながら、墨の濃淡の呼吸だけで奥行きと質量を感じさせる。禅の公案のような画面だ。
中国本土での評価は冷淡だった。元代の画論は牧谿の絵を「粗悪にして古法なし、僧院の壁を飾るには足るが、精しい鑑賞には堪えない」と切り捨てている。整った筆致と格式を重んじる文人画の物差しからすれば、彼の即興的でざらついた筆は品格を欠くものに見えたのだろう。同時代の梁楷が減筆体で一気に人物を描き出したのと近い禅画の系譜にありながら、牧谿はより湿った墨、より曖昧な輪郭を選んだ。
皮肉なことに、その「粗悪」とされた絵が最も熱く迎えられたのは海の向こうだった。鎌倉から室町にかけて日本に渡った牧谿作品は、足利将軍家の唐物趣味の中核に据えられ、東山御物として珍重される。《観音猿鶴図》も《六柿図》も今は大徳寺に伝わり、国宝として残る。雪舟をはじめとする水墨画家たちは牧谿の滲みと余白から多くを学び、狩野派の御用絵師たちもその画帖を手本とし続けた。本国で忘れられかけた絵が、遠く離れた島国で見出され、日本の水墨画そのものの体温を決めた——牧谿という画家の運命は、そうした逆説に満ちている。
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