日本橋を夜明けに渡る参勤交代の行列から、京の三条大橋まで。歌川広重の《東海道五拾三次》は、江戸から京へ上る東海道を55枚でたどる版画の揃いである。
広重はこの道を、天保3年(1832年)の秋、幕府が朝廷へ馬を献じる行列について歩いた。その道中の写生が、この揃いになった。長くそう語られてきた。
その足跡を、絵の中でたどってみる。
三代目の広重が語った話
行列について京へ上ったという話は、たどると一つの文章に行き着く。明治の考証家、飯島虚心が『浮世絵師歌川列伝』に書き留めた一節である。
天保の初年、広重幕府の内命を奉じ京師に至り、八朔御馬進献の式を拝観し、細に其の図を画きて上る。其の往来行々山水の勝を探り、深く感ぜる所あり。これより専ら山水を画くの志を起せりとぞ
天保のはじめ、広重は幕府に内々に命じられて京へ上り、8月1日に幕府が朝廷へ馬を献じる儀式を見て、その様子を細かく描いて差し出した。行き帰りの道で各地の山や川の景色に深く心を動かされ、このときから風景を専ら描こうと思い立った、という。
虚心はこれを、三代目の広重から聞いた話として書いた。三代目は、広重の死後にその名を継いだ弟子である。浮世絵研究者の稲垣進一は2002年の論文で、この一節を上洛の話の「唯一のよりどころ」と書いている。
火消しの家の長男
広重は寛政9年(1797年)、江戸の八代洲河岸(やよすがし)にあった定火消屋敷で生まれた。父は定火消同心、つまり幕府の火消しを務める下役だった。
文化6年(1809年)、13歳の広重は父の役目を継いだ。同じ年に、両親を相次いで亡くしている。
豊広の弟子
広重がはじめに入門を望んだのは、役者絵と美人画で一世を風靡していた初代歌川豊国だった。門人が多すぎると断られ、文化8年(1811年)ごろ、豊国と同門の歌川豊広に入門する。
翌年、豊広から「広重」の名を許された。師の名の「広」に、本名の重右衛門の「重」を合わせた名だという。
火消しと絵師
絵師になっても、火消しの勤めは続いた。文政元年(1818年)12月には、小川町の火事で大火を食い止め、老中から褒められている。広重の家、安藤家の由緒書が書き留めた働きである。
表彰まで家の誉れとして書いた記録だが、京への旅は一言も出てこない。
火消しの勤めは14年に及び、文政6年(1823年)に役目を退いた。絵のほうは、文政年間を通して美人画や役者絵など手広く描いたが、振るわなかった。
風景を描いた《東都名所》を出したのは天保2年(1831年)ごろ、30代半ばのことである。
《東海道五拾三次》は、天保4年(1833年)ごろから出た。版元、つまり版画を出した店は保永堂という。旅の流行に乗ってよく売れ、広重は一躍、人気絵師になった。
箱根の山
ここから、宿場をいくつか、絵の中でたどる。
箱根の山は、実景とかけ離れている。その描き方が、かえって江戸の人々を驚かせ、評判を取ったと考えられている。
蒲原の雪
蒲原は駿河、いまの静岡県の宿場で、冬も暖かい土地である。広重はそこに、深い雪を降らせた。
稲垣は、この図を「ありえない風景の代表格」と呼んでいる。
傘と札
〈庄野 白雨〉の白雨は、夕立のこと。揃いのなかで最も有名な一枚とされる。坂を駆け下りる旅人の傘には、「竹のうち」「五十三次」と書いてある。
〈関 本陣早立〉では、宿の内に下がる札に、京橋で売られていた白粉「美艶仙女香」の名が入っている。
長く売れ続けたこの揃いには、色を替えたり版を足したりした異版が多い。最初の一枚の〈日本橋〉も、のちに板木が作り直され、手前の人物が大幅に増やされた。
京の三条大橋
揃いの最後の一枚は、京の三条大橋である。稲垣は、この図の下敷きを、旅の案内書『東海道名所図会』の挿絵とみる。
三条大橋の橋脚は石でできていた。広重はそれを、木で描いた。
旅したにしては『東海道名所図会』を写しているなど、上洛の話は研究者のあいだで以前から疑われていた。稲垣は、ほかの東海道の揃いまで調べれば「上洛しなかったことが決定的となるだろう」と書く。
1994年には、広重は東海道を旅せず、江戸の洋風画家・司馬江漢の画帖を写した、という話がマスコミをにぎわせた。保永堂版とそっくりの肉筆の画帖が、江漢の作として世に出たのである。稲垣は現物を見て、この画帖を贋作と断じている。
江戸の名所へ
晩年の広重は、江戸の名所に戻った。安政3年(1856年)から出た《名所江戸百景》は、評判を呼んで翌年には100図に達し、広重が世を去る年まで続いた。
手前のものを極端に大きく描く構図が多い。
1887年の秋、パリにいたフィンセント・ファン・ゴッホは、この〈亀戸梅屋舗〉を透写し、方眼を引いて少し拡大してから、油彩に写した。
その6年後、印象派の画家カミーユ・ピサロは息子への手紙に、広重はすばらしい印象派だと書いている。
辞世
安政5年(1858年)9月6日、広重は62歳で世を去った。コレラにかかったと伝えられる。
死の4日前に書いた遺言は、こんな歌で結ばれている。
死んでゆく 地ごくの沙汰は ともかくも 阿とのしまつが金しだいなれ
広重の名は、弟子に継がれた。翌年、弟子の重宣(しげのぶ)が師の養女の婿となって、二代広重を名乗った。そのあとには、もう一人の弟子が三代広重となる。冒頭の旅の話を語ったのは、この三代目である。二人のことは、それぞれ二代広重と三代広重の記事に書いた。
死の月のうちに、広重の死を悼む肖像の版画、死絵が出た。添えられた文によれば、広重は辞世まで詠み置いて世を去った。
東路へ 筆をのこして 旅のそら 西のみ国の 名ところを見む

歌川広重
Utagawa Hiroshige
1797–1858
出典
- 鈴木重三編「広重年譜」『浮世絵芸術』18号、1968年
- 岡畏三郎編「広重年譜」二代・三代の部『浮世絵芸術』18号
- 『日本大百科全書』(永田生慈)
- 『世界大百科事典』(松木寛)
- 関根黙庵『本朝浮世画人伝』1899年
- 山口桂三郎「広重資料 安藤家の由緒書と親類書―附 二通の遺言書」『浮世絵芸術』27号、1970年
- 稲垣進一「検証 保永堂版・東海道五拾三次の謎」『浮世絵芸術』142号、2002年
- 吉田漱「二代広重考」『浮世絵芸術』100号・101号、1991年
- 静岡市東海道広重美術館の解説と2021年の展覧会
- 太田記念美術館、東京富士美術館、町田市立国際版画美術館の解説
- ファン・ゴッホ美術館の記録
- Martin Bailey, The Art Newspaper, 2025
- Camille Pissarro, Letters to His Son Lucien, 1943(英訳)
- 山梨県立博物館、東京国立博物館、シカゴ美術館の記録
注
- 火消しの勤めと遺言は、山口桂三郎の翻刻から引いた。
- 行列について上洛した話の出どころと、〈蒲原〉〈京師〉の見方は、稲垣進一の論文による(飯島虚心の一節も同論文の引用による)。
- 制作年と寸法は各図版を所蔵する機関の記録に従い、《東海道五拾三次》の各図は Wikimedia Commons の所蔵館別の記録による。
図版
- 歌川広重《東海道五十三次(保永堂版) 01 日本橋 朝之景》 — Public domain / Wikimedia Commons, Database of the British Museum, London出典
- 歌川広重《東海道五十三次(保永堂版) 11 箱根 湖水図》 — Public domain / Wikimedia Commons, Database of the Museum of Fine Arts, Boston出典
- 歌川広重《東海道五十三次(保永堂版) 16 蒲原 夜之雪》 — Public domain / Wikimedia Commons, Database of the British Museum, London出典
- 歌川広重《東海道五十三次(保永堂版) 46 庄野 白雨》 — Public domain / Wikimedia Commons, Database of the Edo Tokyo Museum出典
- 歌川広重《東海道五十三次(保永堂版) 48 関 本陣早立》 — Public domain / Wikimedia Commons, Database of the Museum of Fine Arts, Boston出典
- 歌川広重《東海道五十三次(保永堂版) 55 京師 三条大橋》 — Public domain / Wikimedia Commons, Database of the Museum of Fine Arts, Boston出典
- 歌川広重《名所江戸百景 亀戸梅屋舗》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
- フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲く梅の木(広重による)》 — Public domain / ファン・ゴッホ美術館(Vincent van Gogh Foundation、s0115V1962)出典
- 歌川国貞(三代目歌川豊国)《死絵 歌川広重》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Clarence Buckingham Collection出典
