天使の下に、ルターの顔が隠れている

スイスに生まれ、ドイツで活動した画家パウル・クレーは、天使を描いた紙を、宗教改革者マルティン・ルターの肖像の版画に貼りつけていた。《新しい天使》という、1920年の作品である。

絵の下に絵がある。といっても、すっかり隠れているわけではない。ルターの銅版画は、天使の紙よりひとまわり大きい。そのため、覆われずに残った端が、遠目や複製では、天使を囲む黒い縁のように見える。さらにその下に、クレーが題を書いた台紙がある。三枚の紙を重ねた作品だった。

パウル・クレー
新しい天使
1920 油彩転写・水彩、紙 31.8 × 24.2 cm

翌年、この絵を買ったのが哲学者ヴァルター・ベンヤミンだった。彼はこの一枚を大切にし、天使について繰り返し文章を書いた。それでも、下にルターの肖像があるとは知らなかったとみられる。その正体が分かったのは、制作から95年後だった。

天使の線の引き方にも、別の紙の重なりが関わっている。クレーはこの線を、別の紙に描いた素描から写した。油絵具を塗った薄い紙を間に挟み、素描の線を針でなぞると、押したところの絵具が下の紙へ移る。自分で作ったカーボン紙を使うような方法で、「油彩転写」と呼ばれる。

ただし、線だけがそっくり移るわけではない。紙を押さえた手の圧力や、紙どうしのこすれまで跡になる。そうした跡は消されず、写した線の上に水彩が重ねられた。A4の紙より少し大きいだけのこの一枚(縦およそ32センチ、横24センチ)には、描く手だけでなく、なぞる手、押さえる手、貼る手の仕事が残っている。

ベンヤミンはのちに文章のなかで、この天使の前に瓦礫の山を積み上げ、翼に激しい嵐を吹きつける。けれど、そのどちらも絵には描かれていない。

持ち主は、何を経てそんな光景を見るようになったのだろう。

誕生日に届いたのは、天使からの詩だった

1921年、28歳のベンヤミンは、ミュンヘンに友人を訪ねたとき、《新しい天使》を1,000マルクで買った。ところが、買った絵をすぐ自分の部屋に掛けることはできなかった。

その友人ゲルショム・ショーレムの回想によれば、ベンヤミンはベルリンで個人的な大きな困難を抱えていた。また住まいが定まるまで預かってほしいと、絵を持ってきたという。

ショーレムは、当時ミュンヘンで学んでいた。のちにユダヤ教の神秘思想の研究を学問として築く、ユダヤ教史家である。天使はその年の11月まで、彼の部屋に掛かっていた。

自分の買った絵が、友人の部屋に掛かっている。その年の7月15日、ベンヤミンの誕生日に、ショーレムから詩が届いた。語り手は、預かっている絵の天使だった。

詩の天使は、神にミュンヘンへ遣わされたが、喜んで天へ帰りたいと願っている。長くとどまっても、幸せは少ないからだ。そして、自分は象徴ではなく、自分には意味が無い、とも語る。

このあとベンヤミンは、天使にいくつもの意味を見いだしてゆく。その出発点にあったのが、自分を読み解こうとしてもむだだ、と言うような天使の声だった。しかも、この誕生日の詩は一度きりの贈り物では終わらない。19年後、ベンヤミンが最後の文章の一つでこの天使を書くとき、その一節の頭に戻ってくる。

11月、ショーレムは絵をベルリンへ送った。ベンヤミンはそのころ、絵と同じ名の雑誌を出そうとしていた。「アンゲルス・ノーヴス」は、ラテン語で「新しい天使」を意味する。

なぜ雑誌に天使の名を付けるのか。創刊の予告を読むと、彼が思い描いていた天使の仕事が分かる。ユダヤ教の古い文献タルムードに伝わる話では、天使は毎瞬、数えきれないほど新しく造られる。そして神の前で賛歌を歌うと、無へ消えていく。

生まれ、その瞬間の歌を歌い、消える。その時にしか言えないことを言う雑誌であってほしい。ベンヤミンは、天使の名にそんな願いを込めた。準備は創刊の一歩手前まで進んだが、結局、1号も刊行されなかった。

絵を置いて亡命しても、ベンヤミンは天使を書いた

天使の名を付けた雑誌の構想から十年余りがたつと、絵そのものと離れる日が来る。

ベルリンのユダヤ人の家に生まれた彼は、1933年、ナチスが政権を握ったあとにドイツを離れ、パリへ逃れた。《新しい天使》は、ベルリンに残すしかなかった。

その年の夏、滞在先のスペインのイビサ島で、彼は天使についての短い文章を書いた。絵は手もとにない。その文章でベンヤミンは、天使は自分が別れなければならなかった人々に、そしてとりわけ物たちに似ている、と書く。

「もう私の手もとにない物たちのなかに、天使は住んでいる。」

大切な絵を置いてきた人が、その絵の天使の居場所を書いている。置いてきた絵の天使を思うことが、離れてきた人や、持ってこられなかった物を思うことになっていた。

1935年、絵はベルリンからパリへ運ばれた。天使の実物が、ふたたび彼のそばに戻ってくる。

しかし、亡命先も安全ではなかった。第二次世界大戦が始まった1939年、フランスはドイツ国籍の人々を収容所に入れた。ナチスを逃れてきたベンヤミンも、ヌヴェール近くの収容所で3か月ほどを過ごすことになる。

12月に解放されてパリへ戻った彼は、翌1940年の春、「歴史の概念について」を書く。歴史をどう捉えるかについて、番号を振った短い文章を連ねたものだ。4月には、戦争と、戦争がもたらした情勢が、いくつかの考えを書き留めさせた、と手紙に書き送ったと伝えられる。この文章の9番目に、クレーの天使が現れる。

冒頭に掲げられていたのは、ショーレムの誕生日の詩から取った4行だった。ミュンヘンの友人の部屋に掛かっていたころ、天へ帰りたいと語った天使が、戦争のさなかの文章へ呼び戻された。

未来へ進むほど、助けたいものが遠ざかる

ベンヤミンはまず、クレーの絵の天使について書く。目を見開き、口を開け、翼を広げている。何かをじっと見つめながら、そこから遠ざかろうとしているように見える、と。

見つめているものから、なぜ離れていくのか。ここで、絵にはない光景が文章のなかに広がり始める。

「歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。」

天使が顔を向けているのは、過去だ。

私たちが歴史を振り返るときには、ある出来事が起こり、その次に別の出来事が起きた、という順にたどることができる。けれど、この天使には、出来事を一つずつ区切って眺める余地がない。すべてが、今も続く一つの破局として見えている。壊れたものの上に、また壊れたものが積み重なり、足もとへ投げつけられてくる。

天使は、できればそこにとどまり、亡くなった人たちを目覚めさせ、打ち砕かれたものをつなぎ合わせたいのだろう。

そう読んだうえで、広げた翼を思い浮かべると、その身ぶりが違って感じられる。助けるために近づけるのならいい。ところが、翼には嵐が吹きつけている。楽園から吹いてくるその風は、あまりに強く、翼を閉じることさえ許さない。

翼を広げたまま、天使は後ろへ押し流されていく。顔は過去に向けたまま、背中から未来へ運ばれる。そのあいだにも、目の前の瓦礫の山は天に届くほど高くなる。

ベンヤミンは、最後にその風の名を明かす。

「私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。」

先へ進めばきっとよくなる、と考えるとき、すでに失われたものはどうなるのだろう。天使の目は、そこから離れない。新しい時代に着いたというだけでは、亡くなった人が戻ることも、壊れたものが元に戻ることもない。

それなのに、先へ運ぶ力は、立ち止まって救おうとすることまで妨げる。この光景で「進歩」が恐ろしく見えるのは、助けたいものが見えているのに、そこへ戻る自由を奪うからだろう。

これは、クレーが1920年に描き込んだ意味だとは言えない。戦争と亡命を経験したベンヤミンが、1940年に文章で生み出した光景である。絵の天使は、彼の言葉のなかで、飛べるのに思うところへ行けない存在になった。

天使の詩を書いた友人に、絵そのものが遺された

その文章を書いた春には、まだ絵はベンヤミンのそばにあった。だが6月、ドイツ軍がフランスを占領していくなかで、彼はパリから南へ逃れる。《新しい天使》を、また置いていかなければならなかった。

9月、アメリカへ渡ることを目指し、ピレネーを越えてスペインへ向かった。しかし国境の町ポルボウで、翌日フランスへ送り返すと告げられる。翌朝、彼は宿の寝台で亡くなっているのが見つかった。自ら命を絶ったとみなされている。

「歴史の概念について」が初めて公表されたのは、その2年後だった。出したのは、亡命中の彼を援助していた社会研究所で、部数の限られた追悼集の一編としてだった。

絵のほうは、友人たちの手によって残った。パリで友人に託された絵は、戦後ニューヨークへ送られ、友人の哲学者テオドール・アドルノのもとに届いたと伝えられる。のちにはフランクフルトのアドルノ夫妻の居間に掛かっていた。遺言で、この絵はショーレムに遺されていた。

1972年、ベンヤミンの生誕80年を記念して、ショーレムは「ヴァルター・ベンヤミンと彼の天使」と題する講演を行った。その催しのあと、絵が手渡されたと伝えられる。

買ったばかりの天使を預かり、自分の部屋に掛けていた友人が、51年後に同じ一枚を受け取った。今度は、ベルリンに送り返す日を待つ必要はなかった。

ショーレムが1982年に没したあと、絵はエルサレムのイスラエル博物館に寄贈された。そのころには、クレーの天使を見る人の前に、ベンヤミンの言葉があった。美術史家アニー・ブルヌフによれば、とりわけ1972年の講演以来、この絵は「歴史の天使」の一節を絵にしたものとして見られてきたという。

ただ、その有名な天使を取り囲む黒い縁には、まだ説明のつかないものが残っていた。

黒い縁の正体は、衣のひだから探し当てられた

2013年、画家R・H・クェイトマンが、イスラエル博物館で《新しい天使》の実物を見た。彼女が気に留めたのは、天使のまわりの、指一本ほどの幅の黒い縁だった。

複製では暗い帯に見えるその部分に、実物では細かな平行線や、衣のひだが見える。天使を囲むために引いた線だとすれば、なぜ衣の一部があるのか。館の職員にも、説明できる人はいなかった。

そこで彼女は、デジタル化された版画のなかを探し続けた。天使に覆われた部分は見えない。手がかりになるのは、紙の寸法と、縁にわずかに残った衣である。

2015年、ついにその人物がルターだと突き止めた。下にあったのは、19世紀に刷られた銅版画だった。画家ルーカス・クラーナハ(父)による1521年の肖像の複製を名のる。19世紀のルター派の家庭や教室に掛けられていたような、ありふれた版画だった。

同じ版画の別の刷りが、いまイタリアの美術館に残っている。剃髪していない頭に、学者の黒い衣。右手を胸に当て、左手には聖書を抱えて、目は斜め上を見ている。天使のまわりで黒い縁に見えていたのは、この版画の背景の細かな線と、衣の端だった。

ミュラー《D.r Martin Luther》(クラーナハ(父)の肖像による銅版画、19世紀)。《新しい天使》の下にあるのと同じ図柄の、別の刷り。出典:ロンバルディア州文化財データベース「D.r Martin Luther」(ピナコテーカ・レポッシ所蔵)
ミュラー《D.r Martin Luther》(クラーナハ(父)の肖像による銅版画、19世紀)。《新しい天使》の下にあるのと同じ図柄の、別の刷り。出典:ロンバルディア州文化財データベース「D.r Martin Luther」(ピナコテーカ・レポッシ所蔵)

クレーはよく、銅版画の裏を上質な紙として使ったという。ところが、この作品では肖像の表の側に天使の紙を貼っている。ルターの姿は覆われ、その端だけが天使のまわりに残った。

なぜそんな貼り方をしたのかは、発見だけでは言い切れない。ベンヤミンのほうは、この銅版画を知っていたとは考えにくいと、重なりを研究したブルヌフは見ている。

長く絵を見つめたベンヤミンは、天使の前に、救われない過去が積み上がる光景を書いた。その紙のすぐ下にも古い肖像があったことは、おそらく知らないままだった。

ベンヤミンの言葉が絵を有名にしたあとで、その下の絵へ導いたのは、縁にはみ出した衣のひだだった。ルターの顔が天使に覆われたままでも、そのわずかな部分から、もう一枚の絵へたどり着けた。

ふたたび《新しい天使》を見るときには、翼の向こうの嵐を思い浮かべたあとで、紙の端にも目を移したくなる。黒い縁だと思っていたところで、別の絵が少しだけ顔を出している。

出典

注

  • ベンヤミンの文章の引用は、ドイツ語原文からの私訳。ショーレムの詩は引用せず、内容を紹介した。
  • 1933年夏にイビサ島で書いた文章の一節は、エンゲルマンの記事に引かれた原文から訳した。
  • 1940年4月の手紙の一節(宛先はグレーテル・アドルノ)は、エンゲルマンの記事による。書簡集では確かめていない。
  • ルターの銅版画の制作年は、ブルヌフへのインタビューと書評が1838年、ロンバルディア州の目録が「1800年ごろ〜1830年より前」とし、食い違う。彫り師の名も「フリードリヒ・ミュラー」「クリスティアン・フリードリヒ・フォン・ミュラー」と分かれる。本文では「19世紀」とした。
  • 値段の1,000マルクは、当時の通貨でいう「パピアマルク」とされる。購入の月は、典拠によって5月・6月・春と分かれる。
  • 戦後に絵がニューヨークのアドルノへ送られた経緯と、1972年にショーレムへ手渡された経緯は、エンゲルマンの記事による。ショーレムの没後、絵がイスラエル博物館に入った年は、典拠によって1987年と1989年に分かれる。
  • 《新しい天使》の図版は、Wikimedia Commons のパブリックドメインの画像による。

図版

  • パウル・クレー《新しい天使》 — Public domain / Wikimedia Commons出典

この記事に出てくる作家

パウル・クレー

Paul Klee

1879–1940

ルーカス・クラーナハ(父)

Lucas Cranach the Elder

1472–1553