応為はなぜ、顔を影に描いたのか
北斎の娘・葛飾応為(かつしかおうい)は、提灯の光で顔が見えるはずの遊女を、あえて黒い影にした。
《吉原格子先之図》で、格子の奥に座る遊女である。舞台は江戸の遊郭・吉原にあった和泉屋という店。遊女たちは着飾って店先に並び、格子の内側から往来の客を待っている。題名の「格子先」は、遊女屋の格子の前をいう。
この絵は版画ではない。紙に筆で直接描いた肉筆画である。確認されている応為の肉筆画は、世界で十数点しかない。その一点は東京の太田記念美術館にあり、2026年12月6日までは同館の展覧会で見られる。
客に姿を見せるための場所で、この遊女の顔は見えない。ほかの陰影は正確に描かれていて、右上で顔を見せる遊女には、鼻にまで立体感がある。影にしたのは意図してのことだと分かるが、なぜそうしたのかは伝わっていない。
格子の内の遊女たちは明かりに照らされ、外を行く人々は黒い影になり、地面にも影が落ちている。夜の絵が暗いことは、いまなら当たり前に思える。けれど同館の学芸員・渡邉晃は、2023年、この明暗の描き方を「非常に珍しい表現方法」と評した。日本美術では伝統的に暗い場所を暗く描かず、明暗を描き分けることも一般的ではなかった、という。
応為の光と影は、そうした絵の伝統の中で際立っていた。
夜を照らす提灯には、絵師の名もある。画像を拡大すると、画面の右の大きな提灯に「應」、中ほどの丸い提灯に「為」、その左の細長い提灯に「栄」と読める。「應」は「応」の旧字で、右から読むと、画号の応為と本名の栄が並ぶ。
生まれた年は分からず、1800年頃と見る研究がある。一度結婚したが、離縁して父のもとへ帰り、その後は再婚せずに父の仕事を助けたという。
娘への注文に父が名乗りを上げる
光と影を描いた応為は、美人画でも父をうならせたと伝わる。
「余の美人画も、阿栄におよばざるなり」
阿栄は、お栄のこと。自分の美人画も娘には及ばない、と北斎が人に語ったという言葉である。
これを伝えたのは、北斎の門人の露木だ。浮世絵の研究者・飯島虚心が1893年に刊行した『葛飾北斎伝』に、その話が収められている。北斎の没後44年に出た本で、門人や知人、縁者から集めた話が多い。応為の暮らしや人柄も、この聞き書きによって伝わった部分が大きい。
ただ、応為が絵師として認められていたことは、同時代の記録にも残っている。
1833年、浮世絵師の渓斎英泉は『無名翁随筆』に、北斎の娘の栄が絵をよくし、父に従って専ら絵師の仕事をしていると記した。そこに添えた評は短い。
「名手ナリ」
2年後の1835年には、応為に本の絵の注文が来ている。江戸を離れて浦賀にいた北斎が本屋たちに送った手紙に、「娘へ御注文に御座候が」とある。『新百人一首』という本の絵である。北斎は続けて、自分が描くと申し出ている。画料は人物一人につきいくら、と勘定したいとも書いた。
なぜ父が引き受けたのか。描くのは娘でも、父が描くと本屋に伝えて、少しでも多く画料を得ようとしたのではないか。そう見る研究者もいる。版木も彫られず、本は出ないまま終わったらしい。
北斎の署名の下に娘の筆があるのか
北斎の名で残る絵に、応為の手はどれほど入っているのだろう。
答えを探るとき、基準になるのは、応為が自分の名を書き入れた絵だ。《三曲合奏図》の右下には、「應為栄女筆」の署名がある。吉原の提灯を右から読んだ「應」「為」「栄」と、同じ並びだ。
この絵で、応為の研究者・久保田一洋は、画面の右で三味線を弾く女性の左手に目を留めた。1995年の論文で、弦を押さえる細く長い指と、切れそうなほど描き込まれた関節を挙げ、ほかの応為の作品にも共通する描き方だとしている。
さらに久保田は、北斎の署名がある肉筆画にも、似た手や指の表現が見つかると論じた。北斎晩年の作とされる肉筆画の中に、応為の描いたものがいくつも混じっているのではないか、というのである。
ただし、久保田が示したのは問いの形の仮説で、定説ではない。父と娘の絵には、同じ印が押されたものもある。印を共用したのか、娘の絵に父の署名が入ったのか、ほかの誰かがまねたのか。久保田も、答えは今後の課題としている。
父と娘がすぐそばで描いていたからこそ、後から二人の筆を分けるのは難しい。『葛飾北斎伝』には、浅草の住まいを訪ねた人の話がある。北斎は破れた衣を着て机に向かい、食べ物を包んだ竹の皮などが散らかった中で、娘も絵を描いていたという。
同じ部屋で仕事をする父を、娘はどんな目で見ていたのか。露木は、応為から聞いた別の話も伝えている。
筆が思うように動かず、絵師にはなれそうもないと露木が嘆いたとき、応為は笑って父の話をした。父は幼いころから80歳を過ぎるまで毎日筆を取ってきた。それなのに先日、猫一匹さえ思いどおりに描けないと涙を流していた、と。
自分はだめだと投げ出したくなるときこそ、上達するときなのだ。そう話す娘のそばで、北斎も「実に然り、実に然るなり」と言ったという。
父の見なかった光を娘は追ったのか
応為は、夜空の星にまで色を重ねている。
《夜桜美人図》の星は、白い絵の具で描いた上に、さらに顔料を載せてある。星ごとの色の違いを出すための仕事だ。
小さな星にも、光の違いを描き分けようとする手が入っていた。
光を描くことで、応為は父から何を受け、どこで父と分かれたのだろう。
北斎は早くから西洋画に関心を持ち、影を描くなど、洋風の表現を取り入れていた。学芸員の渡邉は、応為も西洋画に触れ、父やほかの絵師たちの描き方にも触れて、独自の明暗表現にたどり着いたのだろうと見る。どの絵から、何を学んだかまでは分からない。
一方、美術史家の安村敏信は2010年、応為が夜の光や天体の光、人工の光に関心を示したことに注目した。北斎は外の光に関心を持っても、天体の光や人工の光には興味を示さなかったようだ、と安村は言う。娘は、父の目が向かないところを見ていたことになる。安村はそこに、父の助手にとどまらない、光に反応した作家を見て、こう語る。
「当時これほど光に敏感に反応した作家はいないと思う」
応為の光と影は、季節や天候の移ろいを写した明治の風景木版画「光線画」を先取りしていたのかもしれない。小林清親が描いたその表現の先駆けが、応為の絵に見えているのではないか。
灯籠に使うのが惜しくなった
応為に絵を注文し、出来上がりを見て使い道を変えた人がいる。江戸の読み物の作者・四方梅彦だ。これも『葛飾北斎伝』に収められた話である。
梅彦が頼んだのは、発句を書いて稲荷社に供える灯籠の絵だった。仕上がった絵には、盆栽の桜のかげで子猫が遊ぶところが描かれていた。細密で、彩色も美しかったという。
灯籠に使うのだから、ここまで細かく描かなくてもよい。梅彦がそう言うと、応為は、描いた絹の話をした。
この絹には、すでに裏から紙が貼ってある。そういう絹は描きにくいので、普通の絵師なら断るだろう。自分は試しに描いてみたところ、知らず知らず細密になった。人が言うほど描きにくくはない、とも話したという。
持ち帰って見直した梅彦は、灯籠に使うのが惜しくなった。灯籠の絵は別の人に頼み、応為の絵は表装して大切に持っていた。
けれど、その桜と子猫は、のちに火事で失われたと梅彦は語っている。灯籠にせず手元に残した絵の代わりに、注文主の話が伝わった。
筆を懐に出た応為は、どこへ行った
1849年、北斎が没した。
『葛飾北斎伝』によれば、応為は深く悲しみ、その後は門人や親戚の家を転々としたという。それでも、父の没後に応為の絵を買い求めた人がいた。
信州小布施には、晩年の北斎を庇護した豪商がいた。その帳面に、1852年と1853年、飛脚を送って応為から菊の絵を買い取った記録が残る。絹に鮮やかな色で描かれた絵だった。
久保田の報告によれば、飛脚が訪ねた先は浅草聖天横町だった。家を転々としたと伝わるが、父の没後4年たっても、応為は北斎が最期を迎えた場所の近くに住み、絵を売っていた。
その後の足取りは、再び伝聞になる。
『葛飾北斎伝』が引く、応為の姪の遺書によれば、1857年の夏、応為は東海道の戸塚宿の人に招かれ、絵を頼まれて出かけた。
「阿栄筆を懐にし、出て行きしが、夫より知れずなりし」
「夫より」は「それより」。筆を懐に入れて出かけたきり、行方が知れなくなったという。いつ、どこで没したのかも確かではない。
いま確かめられる応為の肉筆画は、十数点にすぎない。梅彦の桜と子猫のように、火事で失われた絵もある。
残った絵に戻ると、《吉原格子先之図》で格子の奥に座る遊女の顔が気にかかる。父の仕事を助けながら、応為は、父の目が向かなかった夜の光を追い、星一つの色にも手をかけた。その応為が、ここでは、明かりの届くはずの顔を影に残している。何を照らすかだけでなく、何を闇に置くかまで、この絵師は選んでいた。
出典
- 飯島虚心『葛飾北斎伝』上下、蓬枢閣、1893年(国立国会図書館デジタルコレクション 上巻・下巻)
- 渓斎英泉『無名翁随筆』1833年成立(楠瀬恂 編『随筆文学選集』第1、書斎社、1927年 所収)
- 久保田一洋「北斎娘・應為榮女論―北斎肉筆画の代作に関する一考察―」『浮世絵芸術』117号、1995年
- 江戸建雄「葛飾應爲の生没について」『浮世絵芸術』47号、1976年
- 清水久男「作品解説 葛飾応為『吉原格子先夜景之図』(仮題)複製版画」『浮世絵芸術』151号、2006年
- 渡邉晃 解説「葛飾応為 光と影を操る女浮世絵師」『文藝春秋』2023年12月号
- 太田記念美術館「葛飾応為『吉原格子先之図』 ―肉筆画の魅力」2023年(作品リスト)
- 太田記念美術館「葛飾応為『吉原格子先之図』 夜景の系譜」2026年(作品リスト)
- 古川幹夫「葛飾応為『吉原格子先之図』 ─ 光と影の美」インターネットミュージアム、2014年
- 小林春日「格子を隔てた2つの世界。吉原遊廓の内と外を、ドラマティックな明暗と陰影で描き出した葛飾応為の代表作『吉原格子先之図』」アートアジェンダ、2020年
- 古川幹夫「メナード美術館コレクション名作展」インターネットミュージアム、2016年
- 影山幸一「葛飾応為《夜桜美人図》抒情と科学の暗闇──『安村敏信』」artscape、2010年
- 町田市立国際版画美術館「清親―光線画の向こうに」プレスリリース、2016年
- DNPアートコミュニケーションズ イメージアーカイブ「三曲合奏図」(ボストン美術館 11.7689)
- 北斎館「小布施と北斎」
- 小林忠「肉筆浮世絵」『日本大百科全書』(コトバンク)
- 佐々木益「肌裏紙が絵画に与える影響に関する研究―古典絵画(絹本)修理時の肌裏紙の選定を中心として―」東京藝術大学 博士論文の要旨、2011年
- 『精選版 日本国語大辞典』「格子先」「猫児」「肉筆」「戯作者」「其れ」(コトバンク)
- 『デジタル大辞泉』「書肆」「裏打ち」(コトバンク)
- 加藤好夫「浮世絵師歌川列伝」浮世絵文献資料館(飯島虚心の著作と、玉林晴朗「浮世絵研究の先覚者飯島虚心」の題)
注
- 北斎の言葉「余の美人画も、阿栄におよばざるなり」は、『葛飾北斎伝』の原本の字による(「余の美人画は」と引かれることもある)。
- 『葛飾北斎伝』と北斎の手紙の引用は、旧字を今の字に、片仮名の助詞を平仮名に直し、原本に無い濁点を補った。
- 《吉原格子先之図》の制作年は、所蔵館の作品リスト(2023年・2026年)による。紹介記事には「文政~天保(1818~1844)頃」とするものもある。
- 提灯の字とその位置は、所蔵館の画像を拡大して読んだ。
- 図版は、《吉原格子先之図》が太田記念美術館、《三曲合奏図》がボストン美術館、《夜桜美人図》がメナード美術館の所蔵品の画像による。
この記事に出てくる作家

葛飾応為
Katsushika Oi

葛飾北斎
Katsushika Hokusai
1760–1849

渓斎英泉
Keisai Eisen
1790–1848

小林清親
Kobayashi Kiyochika
1847–1915
