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呉昌碩

呉昌碩

ごしょうせきWu Changshuo
2 Artworks

少年の呉昌碩は印材を買えず、れんがに釘で文字を彫って篆刻を学んだ。清末から中華民国初めの画家・書家・篆刻家で、詩・書・画・篆刻に通じて「四絶」と称され、古代の文字で鍛えた筆を梅や牡丹の画にも生かした。

故郷は浙江の山村、鄣呉村である。17歳のとき、太平天国の乱の戦いを避けて父と村を離れたが、途中ではぐれ、安徽や湖北を5年さまよった。

村に戻ると、一家9人のうち残っていたのは自分と父だけだった。4000人あまりいた村の人も、25人になっていた。

蘇州では書家の楊峴のもとで詩と書を磨いた。収蔵家の呉雲の家に食客として暮らし、古代の青銅器や秦・漢の印を自由に見たことで、刻印と篆書が進んだと書き残している。

画を学び始めた年には諸説あるが、梅の画は30歳の頃に学んだともいわれる。1883年には画家の任伯年と知り合い、書の技法を画に生かすよう勧められた。呉昌碩は任伯年を「画聖」と尊び、彼のために「画奴」の印を刻んだ。

書の手本となった「石鼓文」は、10基の石碑に刻まれた、始皇帝の文字統一以前の書体である。1886年に拓本を贈られ、生涯臨書を続けた。自ら「私が生涯で力を得たのは、書の法で画を描けることにある」と語っている。

51歳のとき日清戦争が起こり、高官の呉大澂の幕僚として北へ向かった。このとき砲声で耳を傷めたことから、「大聾」と号した。

56歳で江蘇省安東県の長官になったが、わずか1か月で辞めた。作品を売って暮らす道を選び、そこから画の腕は急速に上がったという。

晩年は上海に住み、杭州の篆刻団体、西泠印社で初代社長に推された。日本からも犬養毅らが印を頼み、北大路魯山人や芥川龍之介が訪ねてきた。初めての個展を開いたのは71歳のときで、会場は上海の日本庭園、六三園だった。

77歳のときには会津八一に臨石鼓文軸を贈った。原本の形にとらわれず、字に動きと釣り合いを与える工夫がうかがえる。

82歳の誕生日には墨梅自寿図軸を描き、梅の画で自らを祝った。2年後の1927年、上海の家で世を去った。

斉白石はその芸術に心服し、呉昌碩は斉白石のために作品の値段表を書いた。日本でも作品が広く集められ、現代の書道に大きな影響を与えた。2024年には上野の東京国立博物館で「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」が開かれ、台東区立書道博物館も連携して作品を並べた。

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