
竹内栖鳳
竹内栖鳳は、「東の大観、西の栖鳳」と並び称された京都の日本画家。月が三角に見えたら三角に描くと語り、動物も決まった形より自分の目に映る姿を大切にした。四角に近い月を描いて笑われたことがある。ところが後に、その形の月を実際に見た人がいた。
元治元年(1864年)、京都・御池通油小路の料理屋「亀政」に生まれた。14歳で絵を習い始め、明治14年(1881年)に円山派・四条派の画家幸野楳嶺に入門し、「棲鳳」の号を授かる。
入門の半年後、手本に倣わず自分の描き方で塾の試験に合格し、工芸長に抜擢された。手本どおりに描くのが当たり前だった当時としては、異例のことだった。
明治22年(1889年)から勤めた髙島屋では、染織品の下絵を描いた。そこで西洋の画集や写真を目にし、欧州へ行きたいと思うようになる。明治33年(1900年)、パリ万国博覧会の視察で渡欧した。
帰国後まもなく、ロンドンの動物園で写生したライオンをもとに獅子の屏風を描き、展覧会で評判を呼んだ。号の「棲」も、西洋の「西」を含む「栖」に改めた。
帰国した年の講演では、日本画でも実物をもう一度よく見て、しきたりの筆づかいにとらわれず、自分の感じたものを描くべきだと説いた。明治40年(1907年)、国が初めて開いた美術展覧会では京都の画家を代表して審査員を務め、柳と鷺の動きの一瞬をとらえた絵を出した。
動物だけでなく、それまで京都の画家が苦手とされてきた人物画にも挑んだ。舞妓をモデルにしたアレ夕立にや、着物を脱ぐ女性のはじらいを描いた《絵になる最初》がある。
画塾「竹杖会」と京都市立絵画専門学校では、上村松園や土田麦僊らを育てた。麦僊らが国の展覧会を飛び出して新しい会をつくったときも、顧問として支えている。
大正9年(1920年)から二度訪れた中国では、水辺の町にひかれた。その後の風景画には、人々の暮らしも描き込む。
大正13年(1924年)の班猫では、体をひねって毛をなめる猫をとらえた。
その後も動物を描き続け、昭和12年(1937年)に第1回文化勲章を受けた。八十になったら思うままの絵を描いてみたいと語っていたが、昭和17年(1942年)、療養先の湯河原で世を去った。
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