
ラファエロ・サンティ
自然さえ彼に負けるのを恐れたと、ラファエロ・サンティの墓碑銘はたたえる。アテナイの学堂や三角形の構図にまとめた聖母子で知られる画家・建築家で、盛期ルネサンスの三大巨匠の一人に数えられる。
1483年、ウルビーノに生まれた。父ジョヴァンニ・サンティは宮廷画家で、詩人でもあった。8歳で母を、11歳で父を亡くした。
1500年ごろには、ペルージャの画家ペルジーノの助手だった。芸術家の伝記を書いた16世紀の画家ヴァザーリによれば、初期の磔刑図は、名前が書かれていなければ誰もがペルジーノの作と思うほどだった。1504年の聖母の結婚も、師の同じ主題の絵を下敷きにしている。ヴァザーリは、遠近法で描いた神殿に、師を越えていく腕を認めた。
同じ年にフィレンツェへ移り、レオナルド・ダ・ヴィンチらの美術を研究した。牧場の聖母ヒワの聖母では、聖母と二人の幼子を三角形にまとめる構図をレオナルドから取り入れた。ほかの画家から学び、自分の様式を育てる力は、ローマでも発揮された。
1508年の終わりごろ、教皇ユリウス2世に招かれてローマへ移った。ヴァチカン宮殿で最初に任されたのは、のちの「署名の間」の壁画だった。アテナイの学堂では、古代の哲学者たちが集まる中央にプラトンとアリストテレスを据えた。ヴァザーリによれば、鏡を見て描いた自画像もある。
1511年のユリウス2世の肖像は、生きた本人のようで、見る人が恐れるほどだったとヴァザーリは伝える。考えに沈む教皇を間近に描いたこの型は、約200年にわたって聖職者の肖像の手本になった。
1514年には建築家ブラマンテの後を継ぎ、サン・ピエトロ大聖堂の建築主任となった。翌年には、ローマとその周辺で掘り出される古代遺物の監督も任された。ヴァザーリによれば、宮廷へ出かけるラファエロには50人の腕のよい画家が付き従った。
1520年4月6日、聖金曜日に37歳で没した。ヴァザーリは、生まれたのも聖金曜日で、生まれたのと同じ日に世を去ったと書いた。仕事をしていた広間で、遺体の頭側に、最後まで描き続けたキリストの変容が置かれた。本人の望みで、ローマのパンテオンに葬られた。
17世紀後半から19世紀にかけて、その絵は美術アカデミーの教育の手本となった。19世紀イギリスのラファエル前派は、ラファエロと崇拝者たちの影響を退け、彼より前の美術へ戻ろうとした。
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