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大下藤次郎

おおした とうじろうOshita Tojiro
1 Artworks

大下藤次郎は、本郷の馬宿と馬車問屋の家で家業を手伝ったのち、絵の道に進んだ明治の水彩画家である。「水彩画之栞」と雑誌「みづゑ」で水彩画を全国に広め、自らは上高地や尾瀬の山と湖を描いた。

明治3年(1870年)、東京本郷真砂町に生まれた。明治24年(1891年)に洋画家の中丸精十郎に入門し、中丸の没後は原田直次郎に師事した。

明治28年(1895年)に真砂町の土地と家屋を売り、絵に専念できるようになった。この年に初めて会った森鷗外とは、のちに親しく交わった。

明治31年(1898年)には軍艦金剛に便乗してオーストラリアへ渡った。フィジーまで回って半年後に帰国している。この年の水彩に《メルボルン港》《赤道直下にて》がある。

明治34年(1901年)に刊行した「水彩画之栞」は、水彩画の流行を引き起こした。巻頭には鷗外が題言を寄せている。岩手県生まれの萬鉄五郎も、この本を手本に独学してから上京した。

太平洋画会の創立にも加わった。明治35年(1902年)から翌年の欧米旅行では、石川寅治とボストンなどで二人展を開き、絵を売って旅費を稼いだ。

明治38年(1905年)7月、春鳥会を興して「みづゑ」を創刊した。雑誌はのちに「国華」とともに日本を代表する美術雑誌に育ち、春鳥会は長男の正男が継いで美術出版社となった。

翌年には丸山晩霞らと水彩画の講習所を開き、明治40年(1907年)に研究所とした。

同じ年、小島烏水の勧めで初めて上高地に入った。7月18日と20日の夕方4時から7時ころまで、なるべく主観を除き、見えるままに穂高の残雪を写した。紀行文には、ブヨや蚊に刺されながら描いたとある。

第1回文展には《穂高山の麓》を出品した。翌年は尾瀬沼を描き、明治42年(1909年)には白峰を描こうと甲州の西山へ向かった。峠を下る途中、雪の峰を見て「白峰! 白峰!」と思ったが、後で聞くと悪沢岳だった。

明治43年(1910年)には太平洋画会の仲間と小豆島を写生して回り、内の海弁天島を描いた。明治44年(1911年)も瀬戸内海や松江を訪れたが、10月10日に病没した。

翌年の遺作展には93点が並んだ。遺作集の年譜を書いたのは、友人の森鷗外だった。

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