
丸山晩霞
明治28年(1895年)ごろ、丸山晩霞は群馬県の利根川沿いで水彩画を描く青年に出会い、半月あまり旅をともにした。山岳と高山植物の水彩画で知られる晩霞は、吉田博の絵の発色と筆の跡に感じ入った。
晩霞は慶応3年(1867年)、信州の祢津村(いまの長野県東御市)に生まれた。明治21年(1888年)、本多錦吉郎の画塾・彰技堂に入った。修業中は何日も同じ景色に通い、描き誤るたびに洗って描き直した。色が濁り、その場の趣を表せなかったと後年振り返っている。
吉田と出会った年の夏、二人は晩霞の郷里の高原で秋草を写生した。このころから晩霞は、同じ時刻に二、三時間ずつ、五、六日通って一枚を仕上げるようになった。明治32年(1899年)の明治美術会展で晩霞の絵を見た水彩画家の三宅克己は、「何だか信州の空気が画面に漂っていて」と感じ、小諸に移り住んだ。
当時、晩霞・吉田・三宅は、絵を横浜の店にごく安く売って暮らしていた。明治33年(1900年)10月、晩霞は満谷国四郎・鹿子木孟郎・河合新蔵と渡米した。先に渡っていた吉田・中川八郎とボストンなど3市で展覧会を開き、翌年の早春にヨーロッパへ渡った。
帰国後は田園画家として生きる覚悟で、郷里に画室を設けた。作家の島崎藤村に頼まれ、小諸義塾で週に一日絵を教えた。明治35年(1902年)には太平洋画会の創立に加わった。藤村が明治37年(1904年)に発表した小説「水彩画家」は、晩霞をモデルにしたとされる。晩霞は明治40年(1907年)の『中央公論』で抗議した。
明治39年(1906年)秋、水彩画家の大下藤次郎に誘われて上京した。翌年、二人が中心となって日本水彩画会研究所を建てた。水彩画は学校の課目や雑誌の口絵、絵葉書にも広がった。
明治44年(1911年)には山岳研究のため再びヨーロッパへ渡り、ミラノで大下の訃報を受けた。大正2年(1913年)には日本水彩画会の発起人に名を連ねた。
明治の終わりごろから、高山を背景に、手前に高山植物を置いた絵を多く描いた。最も愛した石楠花を描いた《山巓麗花》は、最晩年の大作である。同じ構図の掛軸が多く残る一方、画壇からは「装飾的な絵ばかり描いている」と批判された。昭和17年(1942年)3月4日、郷里のアトリエ「羽衣荘」で静養中に没した(享年76)。
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