鹿子木孟郎
鹿子木孟郎は、パリで歴史画家ジャン=ポール・ローランスに写実を学び、京都の洋画壇の中心となった洋画家である。漁師の一家を描いたノルマンディーの浜は、令和8年(2026年)に重要文化財への指定が答申された。
この絵では、浜辺の小石に最後まで苦しんだという。同じ答申には、若いころに学んだ画塾・不同舎の師、小山正太郎の《濁醪療渇黄葉村店》も並んだ。
明治7年(1874年)、岡山の旧藩士の家に生まれた。明治25年(1892年)に上京して不同舎に入り、鉛筆の「ただ一本の線」で描く素描を学んだ。のちの号「不倒」は、この画塾の名にちなむ。
明治33年(1900年)、不同舎の仲間の満谷国四郎や丸山晩霞とアメリカへ渡った。ボストンでは、先に渡っていた吉田博や中川八郎と水彩・素描展を開き、絵を売った収益で翌年パリへ向かった。パリではアカデミー・ジュリアンでローランスに師事した。現地で出会った浅井忠の勧めで住友家の給費を受け、留学を延ばした。代わりに、ローランスの作品や名画の模写を住友家に届けている。
明治37年(1904年)に帰国すると京都で画塾を開き、浅井らと関西美術院の設立に加わった。安井曾太郎や黒田重太郎も、若いころに鹿子木の指導を受けた。
明治39年(1906年)に再びフランスへ渡り、ノルマンディーの漁村イポールでノルマンディーの浜を描いた。明治41年(1908年)春のサロンに入選し、帰国後は関西美術院の院長や文展の審査委員を務めた。当時の存在感は、大正8年(1919年)の人物評「京都画壇之壱百人」にも残る。浅井の没後、京都の洋画壇は実際に鹿子木の舞台だったと記されている。
ただ、関西美術院では院内の対立から、大正4年(1915年)に院長を辞めていた。その暮れに三度目のフランス留学へ発ち、帰国後に素描集「根底画集」を出した。題は画材の「コンテ」にかけたと自ら記し、滞仏中のブルタンニュの漁夫や下鴨で描いた糺の森の老樹を収めた。
下鴨の画塾には小林和作や北脇昇が通った。鳥瞰図を手がけた吉田初三郎は、文の終わりごとに「恩師鹿子木孟郎先生」への謝辞を添えた。文集の編者が重複をおそれ、その大部分を削ったほどだった。
聖徳記念絵画館の壁画《日露役奉天戦》では、奉天入城と同じ厳寒の季節を選んで現地を調べた。関東大震災を描いた《大正十二年九月一日》などの大画面も手がけた。昭和7年(1932年)にフランスからレジオン・ドヌール勲章を受け、昭和16年(1941年)、京都で没した。
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