
アーシル・ゴーキー
アルメニア系アメリカ人の画家アーシル・ゴーキーは、母との写真をもとにThe Artist and His Motherを描いた。1926年頃に描き始め、10年にわたって手を入れ続けた。
オスマン帝国東端のヴァン湖畔、ホルコム村に生まれた。母との写真は、先にアメリカへ渡った父に送るために撮られた。1915年、一家はヴァンを追われ、エレバンへ逃れた。母は1919年、飢えのために世を去った。
1920年、妹とともにアメリカへ渡った。本名はヴォスダニク・アドイアン。1924年にはゴーキーと署名し、綴りを何度か変えて1932年頃にアーシル・ゴーキーに落ち着いた。ロシアの作家マクシム・ゴーリキーの親戚だと語り、新聞でもいとことして紹介された。
1924年末にニューヨークへ移り、美術学校で教えた。マーク・ロスコは、自分はそこでゴーキーの生徒だったと語っている。多少の美術教育は受けたが、主に美術館や画廊、美術書から学んだ。1929年にはウィレム・デ・クーニングと知り合った。1932〜33年の冬、画商ジュリアン・レヴィに「長いことセザンヌと一緒にいた。今は当然ピカソと一緒にいる」と話した。レヴィは、いつかゴーキー自身と一緒になったら展覧会を開こうと答えた。
1930年代半ばには、公共事業促進局の連邦美術計画でニューアーク空港の管理棟に10面の壁画を描いた。現存するのは2面である。
1943年夏、妻の両親が持つヴァージニア州の農場で100点を超える素描を描いた。妻は後年、この夏がゴーキーの本当の解放だったと振り返った。画家ロベルト・マッタは即興や生物を思わせる形を勧めた。同年暮れにアンドレ・ブルトンと知り合い、1945年のレヴィ画廊での展覧会では図録に文を寄せてもらった。The Liver Is the Cock's Combには、農場の田園と故郷の庭の記憶が重なっている。
1946年1月、コネチカット州シャーマンのアトリエが焼け、20点を超える油彩に加え、素描や本を失った。3月には直腸癌の手術を受けた。1948年6月の自動車事故で鎖骨と首の骨を折り、絵を描く腕を装具で固定された。妻が子どもたちと家を出た5日後の7月21日、シャーマンの借家の敷地にある小屋で自ら命を絶った。
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