応挙はまだ生まれていなかった
円山応挙が幽霊の足をなくした、というテレビ番組のクイズの答えが、研究者の指摘で書き直されることになった。2003年、番組がまだ構成案の段階でのことである。
応挙は、江戸時代の京都で写生を重んじる画風を築いた絵師だ。幽霊画でも名高く、足のない幽霊を描き始めた人だ、という話がついて回る。美術番組『迷宮美術館』の構成案にも、後世の幽霊画に大きな影響を与えた応挙の工夫は何か、というクイズがあった。その答えが「足を無くした」だった。
構成案は、番組の担当者から、近世文学・芸能史の研究者、諏訪春雄のもとへ送られてきた。番組では、諏訪自身もスタジオで幽霊画を解説することになっていた。何度かの電話のやりとりで、担当者はこの答えを直すことになった。諏訪は、学習院大学の研究所のサイトに載せていた「諏訪春雄通信」に、こう書いている。
「私の幽霊研究の重要な一部がこの俗説の否定でした。私としては、簡単には譲れない一線です。」
反証になる本は残っている。1732年刊の怪談本『太平百物語』には、女の幽霊を足のない姿で描いた挿絵が、すでにある。応挙が生まれたのは翌1733年。少なくとも、応挙が一人で思いついて幽霊の足を消した、という話は、年の順に合わない。
本の中の幽霊は、少しずつ足を失っていった。元禄年間(1688〜1704年)の本では、幽霊にはみな2本の足がある。『太平百物語』の幽霊は、腰から下が細くなって消える。応挙が生まれて50年あまりのち、1787年から出た俳文集『鶉衣』には、腰から下のある幽霊と、ない幽霊の両方が記されている。
ある日を境に、すべての幽霊が足を失ったわけではない。それでも、足を消した人として、応挙の名が残った。幽霊に足がないと考えられるようになったのは、応挙の絵が有名になったためでもあるという。その絵のまわりには、応挙自身が出てくる話まで伝わっている。
その幽霊に会えるのは年に一日
応挙の代表的な幽霊画の一つは、いまアメリカにある。カリフォルニア大学バークレー校の美術館に寄託された《幽霊図》だ。
この一幅とは別に、同じく足のない応挙の幽霊画が、青森県弘前市の久渡寺にも伝わる。久渡寺の絵には、画面の外に書かれた話が二つ残っている。
一つは、絵をしまう箱の蓋裏の書き付けだ。応挙が描いた幽霊は天下に3幅あり、これがその最初のものだという。1784年、応挙の存命中に、弘前藩の家老から寺へ寄進されたことも記されている。
もう一つは、絵と一緒に保管されてきた文書で、こちらには幽霊の身の上が書かれている。応挙の愛妾が亡くなり、夢枕に立った。応挙はその姿を3幅に写し取り、この絵はそのうちの1幅だという。
掛軸を開く前から、見る人はその話を受け取ることになる。幽霊画には、画面の外にも読むところがあった。
夢枕の話は伝承にとどまるが、絵そのものは、2021年の弘前市の調査で応挙の真筆と認められた。この寺が幽霊画を公開するのは、いまも旧暦5月18日の供養の日、一日だけである。
百物語なのに、知られるのは5図
画面の外の話を、芝居や本から借りてきた幽霊もいる。
浮世絵師の葛飾北斎は、《百物語》を100図そろえるつもりだったらしい。けれども、知られているのは5図だけだ。題の「百物語」は、夜に集まって怪談を語る遊びを指す。話が一つ終わるたびに灯を一つ消し、最後の灯が消えると妖怪が現れるとされた。
《百物語 お岩さん》では、お岩の顔が破れた提灯と一つになっている。歌舞伎で提灯からお岩の亡霊が飛び出す「提灯抜け」を描いたもの、とされる。
お岩が登場する歌舞伎《東海道四谷怪談》は、1825年7月、江戸の中村座で初演された。夫の伊右衛門に虐げられて命を落としたお岩が、亡霊となって伊右衛門らを苦しめる話である。
ただ、初演の舞台に、お岩が提灯から抜け出す仕掛けはなかった。「提灯抜け」が始まったのは、1831年8月の市村座の上演からだ。北斎の5図が出たのも、ほぼ同じころである。
1832年には、歌舞伎の役者を描く絵師、春梅斎北英が、北斎の提灯のお岩を取り入れた《百物語 お岩》を出した。伊右衛門を演じる役者が、破れ提灯のお岩と向き合う図だ。舞台の仕掛けと北斎の版画がほぼ同じころに現れ、その版画がまた役者の絵へ渡っていく。
同じ5図の《百物語 こはだ小平二》にも、戻ってくる理由がある。描かれているのは、江戸の役者だった小幡小平次の幽霊だ。小平次は、妻の密通相手に安積沼で殺され、怨霊となって二人につきまとう。北斎の題材は、山東京伝が1803年に出した読み物『復讐奇談安積沼』による。
小平次が蚊帳の外から見つめているのは、自分を殺した相手と妻である。その執念を知ると、夜具や灯りのある、ふだん暮らす部屋にさえ、逃げ場は無いように思えてくる。
骸骨のお手本は医学書だったのか
小平次は、自分から戻ってきた。江戸末期の浮世絵師、歌川国芳の《相馬の古内裏》の骸骨は、呼び出されて現れる。呼んだのは滝夜叉姫。朝廷に反旗を翻した平将門の娘として、物語に登場する女性だ。
場面は、父の亡きあとの荒れた御所。そこへ残党を調べに来た武士、大宅太郎光国を追い払おうと、姫は骸骨を呼び出す。あの大きな骸骨にも、果たすべき用事があった。
この話のもとをたどると、小平次と同じく、山東京伝の読み物に行き着く。将門の遺児たちをめぐる復讐談『善知鳥安方忠義伝』で、初編は1806年に出た。滝夜叉姫と光国の話は1836年に歌舞伎になり、1844年にも別の形で上演された。国芳の版画が出たのは、その1844年ごろである。
そのころは天保の改革で、役者や芝居の場面を色刷りの版画にじかに描くことが、当面禁じられていた。国芳は芝居の絵ではなく、昔の出来事の図としてこれを描き、上演で高まった関心に応えた、という見方がある。
この骸骨は、恐ろしいほど正確に描かれている。西洋の医学書の図を手本にしたのではないか、とする説もある。
幽霊を頼んだ役者が妖怪になる
国芳の画塾には、のちの河鍋暁斎もいた。7歳で入門し、江戸から明治にかけて、幽霊や妖怪も描いた絵師である。
その暁斎に幽霊画を頼んだのが、歌舞伎役者の5代目尾上菊五郎だった。お岩の役を、家の芸として受け継いだ役者である。北斎の提灯の先をたどると、今度は幽霊を演じる側から、絵師に注文が届く。
こうして1868〜70年ごろに描かれたのが、この《幽霊図》だ。暁斎が亡くなった妻を抱き起こして顔や姿を写生し、それをもとに描いたという言い伝えがある。
応挙の夢枕の話と同じく、ここにも、画家に近しい女性の死が語られる。見えないはずの幽霊を、画家は何に基づいて描いたのか。そう問いたくなる絵だからこそ、モデルをめぐる話に耳を傾けたくなるのだろう。
この絵には、下絵も残っている。言い伝えの一方で、この幽霊も、ほかの絵と同じく下絵を経て描かれていた。
菊五郎は、暁斎の別の絵にも顔を出す。1880年、暁斎が東京の劇場、新富座のために描いた引幕である。引幕は、舞台と客席のあいだに引き渡し、横に引いて開け閉めする幕だ。
縦約4メートル、横約17メートル。幕は、暁斎の友人の仮名垣魯文が新富座へ贈ったもので、暁斎は酒を楽しみながら4時間で描き上げたという。
描かれたのは、当時の人気役者たちをモデルにした妖怪が、葛籠から飛び出して客席へ繰り出す趣向だ。菊五郎もその中にいる。舞台で幽霊を演じ、絵師に幽霊を描かせた役者が、今度は妖怪として幕に描かれる側に回った。
この幕を前にした芝居好きなら、恐ろしさより先に、誰がどの妖怪になっているのかを探したくなったのではないか。
妖怪の列はどこまで続くのか
幽霊とは別に、暁斎は妖怪の長い行列も描いている。百鬼夜行は、さまざまな妖怪が夜に列をなして歩くことをいう。
《百鬼夜行之図》は、高さ30センチに対して、長さが約9.7メートルある。ここに掲げた図版は、その巻頭にすぎない。巻物を手もとで右から左へ繰り広げていくと、見る人は、次々に現れる妖怪の一群を迎えることになる。
本の形の百鬼夜行もある。
『暁斎百鬼画談』の初版は、暁斎が1889年4月に没してから4か月後、8月に出版された。紙を蛇腹に折り畳んだ折本で、巻物とは違い、めくるたびに絵の続きが現れる。
ここに掲げたのは本の途中の見開きで、本の始まりは、蝋燭が1本だけ立つ座敷である。百物語の座とみられる場面だ。その先で、黒い雲の中から骸骨の群れがなだれ出て、妖怪の行列が続く。北斎のシリーズの題にあった、怪談を語って灯を消す遊びが、ここでは妖怪たちを迎える入口になっている。
背中の女が、楠木正成だった
暁斎と同じく国芳に学んだ浮世絵師に、月岡芳年がいる。12歳で入門し、明治になってからも怪異のシリーズを手がけた。
《新形三十六怪撰》は、芳年の最後の大きなシリーズである。1889年から、世を去る1892年にかけて、36図が作られた。お岩の《四ツ谷怪談》や、皿屋敷のお菊の《皿やしきお菊の霊》も出てくるが、題材は復讐する幽霊に限らず、天狗や鬼、狐の話まで集められている。
《大森彦七道に怪異に逢ふ図》で武士に背負われている女は、ただの道連れではない。もとの『太平記』の話では、その正体は武将・楠木正成の亡霊である。
背負う大森彦七は、南北朝時代の武士だ。合戦で足利方につき、正成を死地に追い込んだ。その直後、正成の亡霊が鬼女となって現れ、彦七の刀を奪おうとする。彦七は錯乱するが、最後には『大般若経』の功徳で救われる。
国芳の骸骨も、芳年の鬼女も、武士と向き合う。その背景には、敗れた側の恨みがある。お岩や小平次のような夫婦の間の怪談から、戦場の敵が追ってくる話まで、幽霊が戻る理由はそれぞれに違う。
原稿は焼けたのに幽霊画は残った
芳年のシリーズより十数年前、明治の初めの東京に、幽霊画を集めて客に見せた人がいる。怪談噺《怪談牡丹灯籠》などを創作した落語家、三遊亭円朝だ。
円朝も、若いころに国芳のもとで絵を学んでいた。暁斎と芳年を教えた絵師のもとに、怪談を語り、幽霊画を集める落語家も通っていた。
1875年2月、円朝は柳橋で怪談会を催し、多くの幽霊画を人に見せた。文人の依田学海は、その日のことを日記に書き留めている。
「皆は、幽霊会といふに似もやらず、混雑することかぎりなし。」
静まり返った座敷を想像していると、この一文には調子を狂わされる。幽霊画は、客が押しかけるほど見たいものでもあった。
円朝ゆかりの幽霊画は、いま東京・谷中の寺、全生庵にある。寺へ寄贈されたのは1922年。翌年の関東大震災で、寄贈した家に残っていた円朝自筆の日記や原稿の多くは焼けたが、寺へ移っていた幽霊画は焼けずに残った。
全生庵では毎年8月、幽霊画を公開している。円朝の命日の8月11日には、落語家たちによる供養の会も開かれる。
百物語は夏の季語である。《東海道四谷怪談》が初演されたのは、先祖を祭る盆の月、旧暦の7月だった。怖い絵は、夏の夜に怪談を語る座や、盆の月の芝居や、供養の日の寺で、見に来る人を待っていた。
冒頭のテレビ番組の構成案も、全生庵の幽霊画を紹介するところから始まっていた。柳橋の怪談会から百年あまりのちにも、幽霊画を見せる番組が作られようとしていた。その山場で問われた幽霊の足は、応挙一人が消したものではない。
出典
- 諏訪春雄「諏訪春雄通信88」学習院大学東洋文化研究所 アジア文化研究プロジェクト、2003年
- 「円山応挙」『日本大百科全書』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』ほか(コトバンク)
- 『太平百物語』享保17年(1732年)、九州大学附属図書館蔵
- 飯島吉晴・大藤時彦「幽霊」『改訂新版 世界大百科事典』『日本大百科全書』(コトバンク)
- 「鶉衣」『精選版 日本国語大辞典』『日本大百科全書』(コトバンク)
- UC Berkeley Art Museum and Pacific Film Archive「The Ghost of Oyuki」(CJ.164)所蔵記録
- 青森県教育委員会「県重宝(絵画)の指定について」第932回定例会 参考資料、2026年
- 河北新報「足なし幽霊画 応挙の真筆 弘前の久渡寺所蔵、国内初確認」2021年5月22日
- 「百物語」『精選版 日本国語大辞典』ほか(コトバンク)
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- 国立国会図書館 NDLイメージバンク「肝試し:百物語の世界」
- 広末保・松井俊諭「東海道四谷怪談」『改訂新版 世界大百科事典』『日本大百科全書』(コトバンク)
- メトロポリタン美術館「Kabuki Actor Arashi Rikan II as Iemon Confronted by an Image of His Murdered Wife, Oiwa, on a Broken Lantern, Referring to Katsushika Hokusai's Hyaku monogatari (One Hundred Ghost Stories)」(2011.135)所蔵記録
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- 「山東京伝」『デジタル大辞泉』『改訂新版 世界大百科事典』(コトバンク)
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- 「善知鳥安方忠義伝」『精選版 日本国語大辞典』(コトバンク)
- 「滝夜叉姫」『精選版 日本国語大辞典』(コトバンク)
- 「河鍋暁斎」『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』(コトバンク)
- Bunkamura ザ・ミュージアム「ゴールドマン コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力」展 章解説、2017年
- 古川幹夫「ゴールドマン コレクション これぞ暁斎!」インターネットミュージアム 取材レポート、2017年
- 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館「河鍋暁斎画 新富座妖怪引幕」名品セレクション
- 「百鬼夜行」『精選版 日本国語大辞典』(コトバンク)
- シカゴ美術館「Night Procession of Goblins (Hyakki yagyo no zu)」(1964.276)所蔵記録
- 河鍋暁斎『暁斎百鬼画談』岩本俊、1889年(国立国会図書館デジタルコレクション)
- メトロポリタン美術館「Kyōsai's Pictures of One Hundred Demons (Kyōsai hyakki gadan)」(2013.767)所蔵記録
- 国立国会図書館 NDLイメージバンク「新形三十六怪撰」
- The Fitzwilliam Museum「New Forms of the Thirty-six Ghosts」オンライン展示「Yoshitoshi」
- 「月岡芳年」『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』(コトバンク)
- 横井清「大森彦七」『改訂新版 世界大百科事典』(コトバンク)
- 「三遊亭円朝」『改訂新版 世界大百科事典』『日本大百科全書』ほか(コトバンク)
- 全生庵「円朝幽霊画コレクションについて」
- 全生庵「幽霊画」
- 「盆」『日本大百科全書』『精選版 日本国語大辞典』(コトバンク)
注
- 諏訪春雄通信88 には日付が無い。2003年6月ごろとしたのは、同じサイトの前後の号の記事とサーバーの記録による。
- 北斎《百物語》の刊年は、所蔵館で異なる。シカゴ美術館は1831〜32年、アムステルダム国立美術館とアメリカ議会図書館は1830年とする(後の二つは Wikimedia Commons に転載された記録による)。
- 《東海道四谷怪談》の初演(文政8年7月)と、提灯抜けが始まった上演(天保2年8月)の月は、旧暦による。
- 春梅斎北英は、春江斎北英とも号した(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)。
- 依田学海の日記は、全生庵の解説が森銑三『明治人物夜話』(講談社文庫、1973年)から引く文による。引かれた日記の文では、会の名は「快談会」と書かれ、本文に引いた一文では「幽霊会」と呼ばれている。
- 全生庵の幽霊画には、円朝の没後に描かれた作も含まれる。
- 図版は、シカゴ美術館(《百物語 お岩さん》《百物語 こはだ小平二》《百鬼夜行之図》《大森彦七道に怪異に逢ふ図》)・メトロポリタン美術館(《百物語 お岩》『暁斎百鬼画談』)・国立国会図書館(《四ツ谷怪談》《皿やしきお菊の霊》)のパブリックドメイン画像と、Wikimedia Commons の画像(カリフォルニア大学バークレー校の美術館に寄託された円山応挙《幽霊図》、大英博物館の《相馬の古内裏》、イスラエル・ゴールドマン・コレクションの河鍋暁斎《幽霊図》、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の《新富座妖怪引幕》)による。
- 滝夜叉姫の話は、読みもの「蝦蟇の妖術はどこから来たのか――鳥獣戯画から天竺徳兵衛、児雷也まで」で扱っている。
- 歌川国芳は、読みもの「奇想の絵師、歌川国芳 ── 禁令の下で江戸っ子を熱狂させた男」で扱っている。
Images
- 円山応挙《幽霊図》 — Public domain / 個人蔵(カリフォルニア大学バークレー校美術館・パシフィック・フィルム・アーカイブ寄託、CJ.164)Source
- 葛飾北斎《Oiwa (Oiwa-san), from the series "One Hundred Ghost Tales (Hyaku monogatari)"》 — CC0 / シカゴ美術館(Clarence Buckingham Collection、1943.603)Source
- 春江斎北英《Kabuki Actor Arashi Rikan II as Iemon Confronted by an Image of His Murdered Wife, Oiwa, on a Broken Lantern, Referring to Katsushika Hokusai’s Hyaku monogatari (One Hundred Ghost Stories)》 — CC0 / メトロポリタン美術館(Purchase, Friends of Asian Art Gifts, in honor of James C. Y. Watt, 2011、2011.135)Source
- 葛飾北斎《Kohada Koheiji, from the series "One Hundred Ghost Tales (Hyaku monogatari)"》 — CC0 / シカゴ美術館(Clarence Buckingham Collection、1943.602)Source
- 歌川国芳《Takiyasha the Witch and the Skeleton Spectre》 — Public domain / British Museum, London (1915,0823,0.915-916)Source
- 河鍋暁斎《Ghost》 — Public domain / Wikimedia Commons, Israel Goldman Collection, LondonSource
- 河鍋暁斎《Theatre Curtain of the Shintomi-za, with an Impromptu Sketch Monsters》 — Public domain / Wikimedia Commons, Dr. Tsubouchi Memorial Theater Museum, Waseda UniversitySource
- 河鍋暁斎《Night Procession of Goblins (Hyakki yagyo no zu)》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Japanese Print Purchase FundSource
- 河鍋暁斎《Kyōsai’s Pictures of One Hundred Demons (Kyōsai hyakki gadan)》 — CC0 / メトロポリタン美術館(Purchase, Mary and James G. Wallach Foundation Gift, 2013、2013.767)Source
- 月岡芳年《新形三十六怪撰 四ツ谷怪談》 — Public domain / 国立国会図書館デジタルコレクション(pid 1306464)。画像は台紙と色票を除いてトリミングSource
- 月岡芳年《新形三十六怪撰 皿やしきお菊の霊》 — Public domain / 国立国会図書館デジタルコレクション(pid 1306443)。画像は台紙と色票を除いてトリミングSource
- 月岡芳年《Omori Hikoshichi from the series "New Forms of the Thirty-Six Ghosts"》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Bruce Goff Archive, gift of Shin'enkan, Inc.Source
この記事に出てくる作家

円山応挙
Maruyama Okyo
1733–1795

葛飾北斎
Katsushika Hokusai
1760–1849

春江斎北英
Shunkōsai Hokuei

歌川国芳
Utagawa Kuniyoshi
1798–1861

河鍋暁斎
Kawanabe Kyosai
1831–1889

月岡芳年
Tsukioka Yoshitoshi
1839–1892
