版元
蔦屋重三郎
つたやじゅうざぶろう
蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう、1750〜1797年)は、江戸時代中期の版元。吉原の五十間道で、遊郭案内の吉原細見を売る店から始め、1783年(天明3年)に日本橋通油町へ移って、耕書堂の名で黄表紙・洒落本・狂歌本・浮世絵を出す地本問屋になった。大田南畝や山東京伝ら戯作者と組み、喜多川歌麿の美人大首絵を売り出し、東洲斎写楽の役者絵はすべてこの店から出ている。1791年に山東京伝の洒落本を出した科で財産の半分を没収されたが、没するまで出版を続け、店は番頭の勇助が2代目を継いだ。
出典: コトバンク「蔦屋重三郎」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典・デジタル版 日本人名大辞典+Plusほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/蔦屋重三郎-571732、コトバンク「東洲斎写楽」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典・デジタル版 日本人名大辞典+Plusほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/東洲斎写楽-103689、ja.wikipedia「蔦屋重三郎」(2026-10-07 版、2026-10-11 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/蔦屋重三郎
年表・沿革
1773
- 吉原五十間道に面した店を借りて書肆「耕書堂」を営み、吉原細見の卸しと小売りを始めた。
1774
- 北尾重政画の『一目千本』を、版元として初めて刊行した。
1775
- 秋から、自ら『籬の花』と題した吉原細見を刊行し始めた。
1783
- 9月、日本橋通油町の丸屋小兵衛の店を買い、地本問屋の株も得て、耕書堂の本拠をここに移した。
1791
- 山東京伝の黄表紙・洒落本が摘発され、蔦屋は身代半減(財産の半分を没収)の処分を受けた。
1794
- 5月から翌年1月にかけて、東洲斎写楽の役者絵など140余点を刊行した。
1797
- 5月6日に没し、番頭の勇助が2代目を継いだ。
関連人物
- 狂歌師・戯作者 大田南畝 1783〜
四方赤良、蜀山人とも号した。蔦屋から狂歌本や黄表紙を多く出し、序文や跋文も寄せた。重三郎は南畝と知り合ったのを機に、蔦唐丸の名で狂歌師としても動き出した
- 戯作者 山東京伝 1785〜
北尾政演の名で浮世絵も描いた。蔦屋から黄表紙・洒落本を多く出し、1791年に作品が摘発されて手鎖50日の刑を受けた
- 番頭 曲亭馬琴 1792〜
1793年に結婚を機に辞めた。のち『南総里見八犬伝』などで名を成した
- 戯作者 十返舎一九 1794〜
蔦屋に寄宿して黄表紙『心学時計算』を出した。のち『東海道中膝栗毛』で名を知られた
- 2代目当主 勇助(2代目蔦屋重三郎) 1797〜
初代の番頭で、婿養子として店を継いだ。書物問屋の仕事を中心にしながら、初代が狙っていた葛飾北斎を起用した出版を本格化させた
