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歌川国輝

歌川国輝

うたがわくにてるUtagawa Kuniteru
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初代歌川国輝は、一枚絵の華やかさよりも、綴じられた本の頁のなかで生きた絵師である。錦絵の役者絵や美人画が花形だった幕末の江戸にあって、国輝がもっとも力を注いだのは合巻——庶民が夢中で読みふけった長編の草双紙の挿絵であった。ある評は彼を「草双紙の合巻かきでは、江戸で第一の人」と記す。この一言に、国輝という絵師の輪郭のほとんどが収まっている。

本名を太田金次郎といい、生年は伝わらない。号は一雄斎・五蝶亭・雄斎・独酔舎と使い分けた。入門したのは当代随一の人気絵師歌川国貞、のちの三代目豊国の門である。文政8年(1825年)頃から筆をとりはじめ、当初は師の名の一字を継いで歌川貞重と称した。子供の遊びを描いた玩具絵、善悪を説く教訓絵、双六、咄本、人情本の口絵——読み手にわかりやすく物語を手渡す、教育的で親しみやすい絵を数多く手がけたのがこの時期である。天保13年(1842年)の『浮世又平名画誉』、天保15年の『教訓三界図絵』などは、その職人的な仕事ぶりをよく伝えている。

弘化4年(1847年)頃に国輝と改めてからは、美人画や役者絵、武者絵へも版図を広げた。武者絵《本朝英雄伝 牛頭天皇 櫛田姫》では、伝説上の英雄を画面いっぱいに据え、傍らに姫を配して、物語の一場面を大判の錦絵に凝縮している。とりわけ国輝の名を広く知らしめたのは、忍術使いの英雄を主人公とする長編合巻『児雷也豪傑譚』の挿絵で、蝦蟇に乗る豪傑の姿は、のちの日本の大衆的想像力にまで尾を引いた。神田祭の大額を描いたという逸話も残る。

師の名声にも人気の役者絵の潮流にも安住せず、国輝は物語を絵にする仕事に徹した。安政年間まで旺盛に筆を動かしたのち晩年は不遇で、貧のうちに肺を病んで世を去ったと伝えられる。派手な看板作を残さぬまま、しかし当時のどの家の子どもの手にも彼の絵は届いていた——そういう種類の絵師であった。

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