
歌川国明
うたがわくにあきUtagawa Kuniaki
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生まれた年も、死んだ年も、いまだにわからない。初代歌川国明という浮世絵師の輪郭は、幕末というごく短い時間の切れ目にだけ、うっすらと浮かぶ。本姓は平沢、通称は辰之助、号を一凰斎といった。十四番組御徒士をつとめた平沢辰之助の長男に生まれ、やがて江戸でいちばん繁盛していた絵の工房――三代目歌川豊国、つまり歌川国貞の門をくぐる。筆の跡をたどれるのは弘化から慶応まで、幕府がゆっくり崩れていく十数年に限られている。
源氏絵、風俗画、芝居絵と手広く描いたが、この人をいまに伝えるのは横浜絵だ。ペリーが来て、港が開いていく。江戸の絵師たちは、見たこともない異人と黒船を、聞き書きと想像だけで錦絵に起こした。万延元年(一八六〇)の《横浜五十鈴楼之図》(早稲田大学演劇博物館蔵)は、まさにその一枚である。西洋の帽子や衣裳が、江戸の遊里の意匠と同じ画面で肩を並べている――ふたつの世界が触れあった一瞬が、そのまま貼りついている。文久のころには《仮名手本忠臣蔵》を連作で描き、肉筆の《遊女と禿図》(絹本着色)は海を渡って大英博物館に納まった。
弟の二代目歌川国明もまた三代目豊国に学び、こちらは西南戦争の錦絵を残している。兄弟の横浜絵は筆づかいがよく似ていて、万延・文久ごろの作はどちらの手か見分けがつかない、と長く言われてきた。歌川国貞が広げた歌川派のすそ野に、名も生涯もかすれかけた門人がこうして幾人もいて、開港期のざわめきを絵に写しとっていた。
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