
高村光太郎
彫刻家の父・高村光雲を持つ家に生まれながら、光太郎は父の芸に反発するところから出発した人だった。東京美術学校で木彫を学び、順当にいけば光雲の跡を継ぐはずが、二十代でニューヨーク、ロンドン、パリへと渡り、ロダンの彫刻に打ちのめされて帰ってくる。持ち帰ったのは技法ではなく、彫刻とは何かという問いそのものだった。江戸以来の職人的な木彫の型を壊し、塊としての量感、生々しい手の痕跡を彫刻に持ち込もうとした点で、日本の近代彫刻はこの人から始まると言っていい。
代表作《手》のブロンズは、開いた掌の指の一本一本に迷いのない力がみなぎっていて、単なる部分像を超えた存在感を放つ。《乙女の像》は晩年、十和田湖畔に立てるために制作した野外彫刻で、向かい合う二人の裸婦像には、亡き妻智恵子への祈りに似た感情が刻み込まれている。
その智恵子との暮らしは、光太郎の人生の中心にある。長沼智恵子と結婚し、二人で目指した芸術家同士の対等な生活は、しかし智恵子の心の病によって崩れていく。晩年の智恵子が千切り絵に没頭する姿、そして死を看取るまでを綴った詩集『智恵子抄』は、彫刻家としての仕事以上に広く読まれ、光太郎の名を国民的なものにした。彫刻と詩、二つの表現を行き来しながら、どちらにも同じ手の生々しさを刻み続けた人である。
戦時中には戦争協力の詩を数多く書き、戦後はそのことへの深い悔恨から花巻郊外の山小屋にこもって自らを罰するように暮らした。この禁欲的な晩年の日々を経て手がけたのが《乙女の像》であり、そこには技術を超えた、生涯をかけた贖罪と鎮魂の情が宿っている。父の彫刻を否定して始まり、詩人としての名声の陰でなお彫刻を彫り続けた、複雑で誠実な芸術家だった。
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