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橘

橘小夢

たちばなさゆめTachibana Sayume
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橘小夢は、日本の伝説を題材に妖美な女性を描き、「日本のビアズリー」と呼ばれた画家である。版画《水魔》は発禁処分を受け、何百枚か刷ったほとんどすべてが焼き捨てられた。焼却に来た役人が同情し、何枚か取り置くのを内緒で許したため、いまに残っている。

明治25年(1892年)、秋田市に生まれた。本名は加藤凞。父は漢学者だった。生まれつき病弱で、乳母の語る民話や伝説を聞き、絵草紙や錦絵を見るのを好んだ。幼いころから親しんだ物語は、のちに手がける怪奇・伝奇・幽霊譚の挿絵にも重なる。

明治41年(1908年)に上京して洋画を学び、3年後には川端画学校で日本画を学んだ。学校の冊子に短歌や小説も寄せ、画家か小説家かと迷った末、画家の道を選んだ。

初めは竹久夢二の影響が強かったが、大正末期には、細長く誇張した狐顔の女性を流れるような曲線で描く「小夢式」ができあがった。弥生美術館の学芸員・中村圭子は、心に隠れた感情を目に見える形にするところに、小夢の芸術を見ている。

やがて発表の場を画壇から雑誌や画会へ移し、「淑女画報」「女学世界」などの挿絵を描いた。劇作家・岡本綺堂の「半七捕物帳」の装幀も手がけ、綺堂との親交から芝居の仕事にも関わった。

大正12年(1923年)、初めての画集を出す計画のさなかに関東大震災が起きた。原画を預けた出版社が焼け、多くの作品を失った。

昭和7年(1932年)、自宅のアトリエ「夜華異相画房」を版元に、版画を自費で出し始めた。最初の一作が冒頭の《水魔》である。河童にしがみつかれた女性が水底に沈んでいく図は、個展に出したあと、内務省から発禁処分を受けた。理由はいまもはっきりしない。

戦時下には画材が手に入りにくくなり、舞台衣装のデザインなどへ仕事の軸を移した。持病が重くなり、支援者も次々に世を去ると、出版や芝居から離れた。それでも昭和30年代には、子どもたちへの形見を残そうと再び筆を取った。二曲の屏風《地獄太夫》や《花車》はこの時期の作である。昭和45年(1970年)、長女らに見守られて世を去った。

長く「幻の画家」と呼ばれた小夢の女性像は、平成5年(1993年)の弥生美術館の展覧会で評判になった。平成27年(2015年)の展覧会には、故郷の秋田で愛好家の遺族の家などから見つかった21点が初めて並んだ。

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