
東山魁夷
一本道が、前方の丘の向こうへ消えていく。空も畦もない、ただ白茶けた道だけが画面の中央をまっすぐに貫く——1950年の《道》は、日本画がここまで何も描かずに成立しうるのかと人を驚かせた。青森・種差海岸で見た朝の風景に材を得ながら、東山魁夷はそこから樹も家も人も削ぎ落とし、目の前の光景を、旅の途上にある者の心そのものへと昇華させた。国民的画家と呼ばれることになるこの日本画家の芸術は、風景を描いて風景を超えるところにあった。
1908年、横浜に生まれ、幼くして神戸に移り育つ。東京美術学校日本画科では歴史画の小堀鞆音、山水の川合玉堂に学び、卒業後の研究科で結城素明に師事、このとき「魁夷」の号を授かった。1933年にはベルリン大学へ渡り、翌年美術史科に籍を置いて西洋の風景観と空間構成を吸収する——父の危篤で奨学金を一年残して帰国するが、この北ヨーロッパの光と、透きとおった大気の記憶は、生涯彼の色彩の底に沈んでいた。
画家としての地歩を固めたのは戦後まもない仕事である。1947年、房総の鹿野山から望む夕映えを描いた《残照》が日展で特選、政府買い上げとなった。続く《道》で心象風景の画家としての位置を決め、1956年には《光昏》で日本芸術院賞を受ける。
魁夷の真骨頂は、青の諧調にある。群青と緑青を薄く重ねた色面、水平を大きくとった静かな構図、そこに立ちのぼるのは、孤独と旅愁をたたえた内面の情景だった。1969年には京都の四季を歩いて描いた連作《京洛四季》を発表——『美しい日本の私』の川端康成と親交深く、その「今描いておかないと、京都はなくなる」という言葉に背を押されての仕事だったという。1972年ごろからは、青一色の森や湖畔にただ一頭、小さな白い馬がたたずむ〈白馬の見える風景〉の連作を生む。祈りとも幻ともつかぬこの馬は、静謐な画面に問いを射し込んだ。
晩年の十年は、奈良・唐招提寺御影堂の障壁画に捧げられた。日本の海と山を描いた《濤声》《山雲》、鑑真の故郷である中国へ取材した《揚州薫風》《黄山暁雲》——盲目の高僧の魂に捧げる全六十八面の大作を、彼は水墨をもって描ききった。1969年に文化勲章。青の静けさの奥に、この国の風景の記憶そのものを封じ込めた画家であった。作品の多くは長野県立美術館の東山魁夷館に収められている。
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