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フレデリック・バジール

フレデリック・バジール

Frédéric Bazille
8 作品

フレデリック・バジールが描いたバジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通りでは、画架の右に立つ本人の姿を、敬愛するエドゥアール・マネが描いた。クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールと絵を描き、暮らしも支えたバジールは、第1回印象派展の4年前に戦争で世を去った。

1841年、南フランスのモンペリエで、裕福なプロテスタントの家に生まれた。少年のころ、隣に住む収集家の家でウジェーヌ・ドラクロワやギュスターヴ・クールベの絵に親しんだ。

1862年、医学を学ぶためパリへ出た。講義と画塾をかけもちし、その画塾でモネ、ルノワール、アルフレッド・シスレーと出会った。

モネに導かれ、翌年にはフォンテーヌブローの森へ、1864年にはノルマンディーのオンフルールへ出かけ、屋外で描いた。その年、医学の試験には二度落ちた。のちに親の反対を押し切り、画家の道を選んだ。

パリではモネやルノワールとアトリエを分け合い、生活に困るモネをたびたび助けた。1867年には、誰もまともな値をつけないモネの大作《Femmes au jardin》を2,500フランで買い、毎月50フランずつ払うことにした。

同じ年、バジールもモネたちも、パリの展覧会「サロン」の審査に落ちた。仲間と審査に頼らない展覧会を構想したが、資金が足りず計画は流れた。

翌年、屋外に集まる家族を描いた家族の集いがサロンに入選する。バジールは驚き、「たぶん間違えたのだろう」と書いた。1869年にはVue de villageも入選した。

1870年のバジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通りには、サロンで落選した絵に囲まれて集う仲間たちを描いた。

普仏戦争が始まり、バジールは1870年8月に自ら軍に入った。11月27日、曹長への昇進を祝う席で「私は殺されたりしない。人生でやることがありすぎるから」と語った。翌28日、ボーヌ=ラ=ロランドの戦いで致命傷を負った。28歳だった。

家族は残された作品を守った。1898年には母がVue de villageをファーブル美術館に贈り、1910年には回顧展が開かれた。

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