
靉嘔
箱の側面に、指がやっと通るほどの穴がひとつ空いている。差し込んでみても、中に何が仕込まれているのかは目では確かめられない。冷たいのか、濡れているのか、ざらついているのか——触れた感触だけが頼りになる。靉嘔(本名・飯島孝雄)の《フィンガー・ボックス》は、絵を眺めるという当たり前の作法から視覚を取り上げ、手のひらの側に世界を預けてしまう。
1931年、茨城県玉造町(現・行方市)の生まれ。東京教育大学教育学部芸術学科に学び、1954年に卒業した。在学中の1953年には瑛九が旗を振るデモクラート美術家協会に加わり、池田満寿夫らと同じ場で腕を磨いている。1958年に海を渡ってからは、およそ半世紀をニューヨークで過ごし、2008年にようやく帰国した。
渡米後の靉嘔を前衛の渦へ引き入れたのはオノ・ヨーコだった。1961年に彼女がジョージ・マチューナスへ引き合わせ、1963年、靉嘔はフルクサスの一員となる。指先で探らせる箱の実験を重ねたのち、1964年のパフォーマンスを境に、赤橙黄緑青藍紫のスペクトルを帯状に連ねる「レインボー」へたどり着いた。版画に刷り、キャンバスを覆い、彫刻に巻きつき、部屋そのものを染める環境作品にまで、この虹の帯は媒体をえらばず広がっていく。色を美しく見せるためではなく、七色の並び順という決まりごととして扱うところに、靉嘔の手つきがのぞく。
1966年のヴェネツィア・ビエンナーレでは日本代表をつとめ、1970年の第7回東京国際版画ビエンナーレで東京国立近代美術館賞、翌1971年のサンパウロ・ビエンナーレでブラジル銀行賞を受けた。1995年に紫綬褒章、2005年に旭日小綬章。2012年には東京都現代美術館で回顧展「靉嘔 ふたたび虹のかなたに」が開かれ、指の箱から虹の部屋までが一堂に並んだ。
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