前回は、吉田博の一枚がいつ摺られたかを読むための手がかりを並べた。今回はそれを実際に使ってみる。対象は Cugira に登録されている吉田博の作品、木版画が九点と絵画が二点である。
はじめに断っておきたいことがある。この十一点はどれも、誰かが持ち込んだ現物ではない。クリーブランド美術館、ボストン美術館、ホノルル美術館が公開している画像を取り込んだものだ。
つまり判定の相手は「その美術館が持っている一枚」になる。現物を手に取れないのは不利だが、代わりに売買の現場では絶対に手に入らない材料がついてくる。
三年の幅に収まった二点
クリーブランド美術館の受入番号は、頭の数字がそのまま受入年を表す。
《筑後川の夕》は 1930.95。画面の脇には「昭和二年作」とあるから、図案が起こされたのは1927年。そして来歴の欄に Gift of the Artist と書かれている。吉田本人からの寄贈である。
この一枚は1927年に生まれ、遅くとも1930年には吉田の手を離れてアメリカへ渡っていた。摺られたのは、その間の三年のどこか。それ以上でもそれ以下でもない。
左余白の上には、朱で「自摺」が入っている。
《子ども》も同じだ。受入番号は 1930.96、制作は「昭和二年作」、来歴は Gift of the Artist。番号が連番なので、二点そろえて贈られたのだろう。
印をどう読むか、線がどれだけ痩せているか——そうした判断をひとつも挟まずに年代が決まる。こういう個体はめったにない。
そして、この二点は前回書いた話をそのまま裏づけてしまった。どちらにも鉛筆署名がないのである。下端の余白は狭く、鉛筆の跡らしきものは読み取れない。作者本人が贈った、まぎれもない生前摺に、鉛筆のサインが入っていない。「鉛筆サインがあるから生前摺」という言い方が成り立たないことは、この二枚だけで足りる。
印は同じでも、色と場所が違う
自摺印を持つものがもう一点ある。ボストン美術館の《弘前城》で、櫻八題の一図、「昭和拾年作」だから1935年である。
三点の自摺印を並べてみると、刷色がそれぞれ違っていた。《筑後川の夕》は朱、《子ども》は墨、《弘前城》は茶褐。作品の色に合わせて印の色まで変えている。しかも《子ども》だけは、左ではなく右の余白に捺されていた。
「左余白の朱印」を探す癖がついていると、《子ども》の墨の印は見えない。実際、最初は見落とした。
決めきれなかった六点
残る六点には自摺印がない。ただしこれで没後摺と決まるわけではない。前回書いたとおり、吉田はこの印を出来のよい摺りにだけ捺したとされる。押されなかった生前摺があってもおかしくない。
六点とも、画面の中の署名は毛筆の「よし田」で、没後摺に使われる版刻署名とは形が違う。鉛筆署名も、傾きも筆圧も一枚ごとに違う手書きだった。否定する材料は出てこない。かといって年代を絞る材料も出てこない。
来歴も助けにならなかった。2014年の遺贈と2016年の寄贈で、どちらも吉田までは遡らない。
「特」という一字
六点のうち《神楽坂通 雨後の夜》(昭和四年作、2014年遺贈)だけは、左余白に枠付きで「特」の一字が捺されている。
前回触れたとおり、この印の読み方は文献で割れている。特別によく摺れたものを贈答用に取り置いた印だとする説と、1987年のカタログレゾネを出す資金を作るための没後摺に捺した印だとする説。前者なら生前、後者なら1980年代である。
二対一で生前説が優勢だが、こういうものを多数決で決めたくはない。摺り自体の質は高い。それでも保留にした。
色では順番が決まらない
クリーブランド美術館は《東京拾二題 神楽坂通 雨後の夜》を二枚持っている。同じ版から摺られた別の紙である。
並べると色がまるで違う。片方は青灰の寒々しい夜、もう片方は茶褐の暖かい夜。どちらかが早い摺りなのだと言いたくなる。
だが余白の紙の色まで違っていた。両方をリニア化してそれぞれの紙で割ると、寒暖差はほとんど消える。撮影時のホワイトバランスのずれは全チャンネルへの一律の倍率として効くので、こうすれば落ちる。第一印象の大半は、紙の状態と写真だったことになる。
それでも消えない差はある。紙を基準に測ると、空は右のほうが青く(R/G 0.907→0.809)、店先の果物は右のほうが赤い(1.199→1.617)。同じ画面の中で色が逆方向に動いている。撮影のずれなら全体が同じ方向へ寄るから、これは実際に摺り分けられている。
褪色も疑ったが、数字が合わない。赤が飛んだのなら画面は淡くなり紙は黄変するはずだが、赤みの弱い左のほうが全体に濃く(相対反射率 0.098 対 0.117)、紙も黄変していない。
では左が早い摺りなのか。言えない。線の鋭さも左が勝る。しかし着肉を厚くすれば線は太く見えるので、濃さも鋭さも同じ原因から出ている可能性があり、摩耗と区別がつかない。紙の黄変は保管環境の話で、摺られた順とは関係がない。
同じ版の二枚を、色と線だけで前後に並べることはできなかった。摺り分けは実在するが、それは年代ではなく設計の違いである。
なお右下の余白に鉛筆で「7.95—」とある。番号なら「7/95」と書くし、末尾のダッシュは金額の記法だから、これは値段だろう。吉田は限定番号を打っていない。
見えなかったもの
こちらが見ているのは現物ではなく、美術館が公開している画像である。いちばん大きいもので長辺3400ピクセル。実物の寸法に置き直すと、200dpiほどにあたる。
この粗さでは見えないものがある。紙の繊維、空摺の凹凸、そして髪一本ほどの細い線が切れているかどうか。摩耗の判定は、まさにその最後のひとつにかかっている。
だから保留にした四点について、没後摺だと判断したわけではない。判断できるだけの解像度がなかった。それだけのことである。
クリーブランド美術館は、各作品について4300から7300ピクセルのTIFFも公開している。それを手に入れれば、もう少し先まで行けるはずだ。
結果
年代を言い切れたのは三点だった。
《筑後川の夕》と《子ども》は、どちらも1927年の作で、1930年に吉田本人から寄贈されている。摺られたのは1927年から1930年のあいだ。《弘前城》は1935年の作で自摺印を持つから、1935年から吉田が没する1950年までのどこかということになる。
残る六点——《神楽坂通 雨後の夜》の二枚、《春雨》《杉並木》《嵐山》《鯉と亀》——はいずれも保留である。生前摺かもしれないし、そうでないかもしれない。今の材料では、そこまでしか言えない。
九点のうち三点。この割合は、たぶん実態からそう遠くない。
印がひとつ見つかれば年代が決まる、という話ではないのである。
注
- 図版はクリーブランド美術館(CC0)およびボストン美術館(パブリックドメイン、Wikimedia Commons 経由)の公開画像から作成した。拡大と並置のほかに加工は加えていない。
- 前編:吉田博の摺りはいつのものか(1)判別の手引き
