最高賞を狙える絵を、麦僊は描かなかった

日本画家の土田麦僊は、文展の最高賞を狙うにはいちばんよいと思う画題を、自分で退けた。麦が実る季節を描く案だった。師の竹内栖鳳も、それに最も賛成していた。

1913年、26歳の麦僊は、秋の文展に出す絵を考えていた。文展は文部省が開く美術展覧会で、日本画・西洋画・彫刻の3部に分かれていた。審査で選ばれた作品が並び、賞も出る。賞は一等から三等と褒状に分かれていたが、実際に出た最高の賞は二等賞だった。麦僊はそれまでに三等賞と褒状を受け、前年は作品を文部省に買い上げられていた。

次も評価を得たいなら、師の勧める案があった。それでも麦僊は、今の自分には浅い題だと考えた。代わりに選んだのが、海へ潜って働く女性たちだった。

栖鳳は、海女を描くのは文展ではかなり危険だと注意した。麦僊も、前年のように広く好まれる絵にはならないだろうと思っていた。それでも支援者の野村一志に、困難や悪い結果がはっきり見えていても、やってみると手紙で伝えている。

土田麦僊
海女
1913 絹本着色/屏風(6曲1双) 170 × 366 cm

完成した《海女》は、六曲一双の屏風になった。六つの面をつないだ屏風が、左右に一つずつある。一つだけで高さ1.7メートル、幅3.66メートル。その大画面を、海女たちと海辺の風景に使った。

そこまでして描きたかったものを、麦僊は同じ手紙に書いている。

「圧倒する様な力 魅力」

自然の見かけを写すだけでは、もう満足できなかった。絵を見る人を心地よくさせる色調から、圧倒する力へ。《海女》では、絵に求めるもの自体が変わっていた。

西洋絵画との出会いは、京都の図版から

麦僊が西洋絵画に触れた入口は、本や雑誌に載る複製画だった。

1904年に栖鳳の門に入った麦僊は、西洋の美術書の図版を模写し、そのポーズや構図を実際の人物の写生でも試すようになった。1909年に入学した京都市立絵画専門学校では、西洋の美術理論や東西の美術史を学ぶ機会もあった。

日本画という呼び名は、明治時代に、油絵具を使う西洋画と区別するために定着した。岩を砕いた岩絵具などの顔料を、膠という接着材で紙や絹に留めて描く。麦僊の屏風も、この材料で描かれている。

その麦僊が1911年、仲間とつくった仮面会の第1回展には油絵を出した。日本画を学びながら、別の絵具を自分の手で使っていたのである。

当時、若い画家たちを刺激していたのは、印象派に続く世代の後期印象派で、京都でもゴーギャンの画法が紹介され、色を単純にまとめることや、大胆な線で形を描くことが論じられていた。

1912年4月、麦僊は京都府立図書館で開かれた雑誌『白樺』主催の展覧会を訪れた。そこには、フランスの画家ポール・ゴーギャンらのカラー図版が並んでいた。

ゴーギャンは、タヒチへ渡って描いた画家としても紹介されていた。その年の夏、麦僊は八丈島と兵庫県の家島を訪ねる。美術史研究者の豊田郁は、こうした取材旅行にも、ゴーギャンへの憧れがあったと考えている。

旅の成果が、秋の文展に出した《島の女》だった。前年の褒状と買い上げは、この絵が受けたものである。

土田麦僊
島の女
1912 彩色・絹本・屏風2曲1双 166.5 × 184 cm

この絵では、写生したものが、そのまま残されたわけではない。研究者の平賀麻子が写生帖と完成作を比べると、作業する女性の横顔は、写生でははっきり描かれていた。それが完成作では、本人の腕に隠れている。

師のもとで学んだ太さに抑揚のある線を離れ、細く均一な線で色を引き立てた。顔を詳しく描くことより、身体の形と色の関係を選んだ、と読むこともできる。本人は野村への手紙で、この作品をこう呼んだ。

「色彩のみの画」

1913年の候補には、もう一つ桐の花の案もあった。《島の女》に通じる感じのよい絵にはなりそうだったが、それでは自分の成長が見えないと麦僊には思えた。

海女を宿に呼び、午前だけでデッサン40枚

1913年、麦僊は椿や桐の花を求めて八丈島や長野県の松本へ出かけた。思うような成果が得られず、行き先を変えたのが三重県志摩の波切だった。

波切は、京都の画家たちが制作に訪れていた漁村である。村に一軒しかない宿の食事や暑さには閉口したが、明るい海を泳ぐ海女たちには慰められたという。

宿には毎月3人ずつ、海女がモデルとして来た。6月23日付の野村への手紙には、午前に40枚ほどのデッサンを描き、午後には油絵を1枚描いたとある。

同じ宿で写生した画家仲間によれば、麦僊は海女たちの体格を褒めていた。一方で、その暮らしに触れた手紙には、潜ってもわずかな賃銭しか得られない、と書いている。画室で制作できる画家を羨む気持ちもあったが、海女の生活にしみじみと人生を感じる自分には、「野蛮な芸術」がふさわしいのだろうと結んだ。

豊田はこの言葉を、画室で描く名声ある画家や、手本に倣う日本画家に対し、現地へ赴いて海女を描く自分の立場を表したものと読む。

海女たちが日々の仕事として海へ潜る姿に、麦僊は、感じのよい絵では届かなかった力を求めていた。

積めば6センチの写生を、構図には使わなかった

波切で重ねた写生帖は、積み上げると約6センチの高さになった。ところが完成した《海女》について、麦僊は、構図はその写生に拠らずにつけたと語っている。

実際に描くのは約1か月。全体の構図を考えるのには、3か月以上をかけた。

手紙に残る初めの案には、完成作にいない人物も登場する。

「一人の巨人の様な漁夫」

この男が舟から上がってきて、二人の漁夫が舟を浜へ引き上げるはずだった。完成した屏風からは漁夫が消え、女性たちの群像になった。なぜ男性を外したのか、理由を確かめられる資料は、豊田の調べでも見つかっていない。

構図を考える手がかりは、漁村の写生だけではなかった可能性がある。豊田が比較したのは、ゴーギャンの《午睡》だ。

ポール・ゴーギャン
午睡
1892 油彩・カンヴァス 88.9 × 116.2 cm

この作品の白黒図版は、《海女》の前年に『美術新報』へ載っていた。当時の雑誌の図版は白黒が多く、豊田は、そこから学び取りやすいものとして構図や人物のポーズを挙げている。

豊田によれば、《午睡》と《海女》の左側の屏風には、手前に背を向けた女性を置き、その奥に3人を配する共通点がある。とりわけ、手前の女性が片側に重心を置き、足の裏を見せてくつろぐ姿勢について、豊田は「酷似している」と指摘した。

麦僊がこの図版を直接使ったと確認できるわけではない。それでもこの比較は、漠然とした「ゴーギャンの影響」を、人物をどう置くかという具体的な仕事にまで近づけてくれる。

麦僊は、線を描くためには法隆寺の壁画も見に行ったと語っている。海女の身体を前にした写生から、雑誌の複製画、古い寺の壁画へ。3か月以上をかけた構図と線には、波切で目にした一場面を写すだけでは済まない作業があった。

油絵に近づけた絵具を、絹が支えきれない

麦僊は、絵具の使い方にも踏み込んだ。

後年、《海女》の修復を担当した岡岩太郎は、海の群青が油絵のように厚く盛り上がっていると語っている。浜辺には粗い石の粒が混じり、ナイフのようなものでひっかいた跡もあった。

絹に色を塗るだけでなく、盛り、削り、表面そのものに質感をつくる。美術史家の本江邦夫は1997年の展覧会図録で、《海女》を、油絵のもつ実在感を日本画でも実現しようとした厚塗りの作品と評した。

だが、絵具を支えるのは絹だった。豊田によれば、絹が縮むために、盛り上げた絵具は剥落を避けられない状態になった。

1913年秋、文展に出た《海女》は、評のうえでも危うい場所に立った。洋画家の石井柏亭は、新聞『時事新報』でこう断じた。

「実に以ての外のものである。」

柏亭は、後期印象派の紹介がこんな悪い結果をもたらしたのかと嘆き、その責任を麦僊の理解不足に求めた。

一方、『美術新報』には、後期印象派の影響と自然の観察から生まれた、興味ある作品だという評も載った。そこではゴーギャンの名も挙がっている。同じ後期印象派の影響を認めながら、それを理解の誤りと見るか、新しい絵の試みと見るかで、評価が割れた。

この絵が賞を受けたという記録は、麦僊の略年譜にも、東京国立近代美術館の作家解説にも見当たらない。師が心配していた反応は、実際に起きた。しかし麦僊は、悪い結果が見えていても描くと、制作の前に決めていた。

5年後も、日本画の材料には満足できなかった

《海女》の後、麦僊は日本や東洋の古い絵にも学びながら、文展への出品を続けた。やがて審査への不満を募らせ、1918年1月、同じ京都市立絵画専門学校を出た4人の画家と国画創作協会を結成する。自分たちで展覧会を開く場をつくったのである。

ただし麦僊は、協会の結成を単なる文展への反抗と思われるのは遺憾だと書いている。純粋に芸術上の立場から始めた、と述べた。

その第1回展に出したのが、《湯女》だった。

土田麦僊
湯女
1918 彩色・絹本・屏風2曲1双 197.6 × 195.5 cm

湯女とは、温泉場や風呂屋で浴客の世話をした女性である。麦僊は、兵庫県の温泉地・有馬に昔いた湯女を借り、江戸時代初期の女性の姿で自分の心持ちを表そうとした、と制作意図を記している。

昔の風俗を題材にしながら、求める美については、こう書いた。

「現代の吾々の生活が經験する女性美です。」

過去の姿を借りても、描きたいのは今の自分が実感する美だった。この絵でねらったのは、風景と人物のどちらも添え物にしない、一つの絵としての融合である。

それでも材料への不満は消えなかった。同じ1918年、麦僊は、輝きのある女性の肉体を日本画の材料では描き出せないと失望したことを記している。《海女》で絵具を盛り上げてから5年たっても、描きたい身体と、絵具で実現できる身体には隔たりがあった。

絹の上に絵具を厚く盛れば、絹が縮むにつれて、いずれははがれ落ちる。それほど無理な描き方だった。けれどもその無理は、麦僊が何に満足できなかったかを伝えている。

最高賞を狙える麦の秋の構想は、手紙の中に残った。屏風になったのは、師を心配させ、批評家を怒らせ、いつかはがれ落ちるほど絵具を厚く盛った海女たちだった。

出典

注

  • 麦僊の野村一志あての手紙、1913年の新聞・雑誌の評、麦僊が1918年に書いた文は、平賀・豊田の論文の引用によった。修復にあたった岡岩太郎の談話(日本経済新聞2008年8月17日)と、本江邦夫の評(東京国立近代美術館『土田麦僊展』図録、1997年)も、豊田の論文の引用による。
  • 写生帖の高さは、麦僊の言う「殆ど二寸」を約6センチとした(1寸は約3.03センチ)。
  • 《海女》《島の女》《湯女》の寸法は、屏風一隻ぶんの値である。
  • 図版は京都国立近代美術館・東京国立近代美術館・メトロポリタン美術館の所蔵品の画像による。

図版

  • 土田麦僊《海女》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
  • 土田麦僊《島の女》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
  • ポール・ゴーギャン《午睡》 — CC0 / The Metropolitan Museum of Art, 1993.400.3, Wikimedia Commons出典
  • 土田麦僊《湯女》 — Public domain / Wikimedia Commons出典

この記事に出てくる作家

土田麦僊

Tsuchida Bakusen

1887–1936

竹内栖鳳

Takeuchi Seihō

1864–1942

ポール・ゴーギャン

Paul Gauguin

1848–1903

石井柏亭

Ishii Hakutei

1882–1958