別れの挨拶は、ビール箱の蓋に

美人画で知られる竹久夢二が、アメリカとの別れを描いたのはビール箱の蓋だった。1932年の秋、ヨーロッパへ向かう船の中で「FAREWELL AMERICA」と記した。

この旅は、人気も暮らしも行き詰まりつつあった夢二の、出直しの機会だった。絵を売って旅費を稼ぎながら、生活に結びつく美術を海外で見たい。その期待を抱いて、日本を出ていた。

夢二の人気は、1923年の関東大震災を境に下降していた。街の復興が進み、交通網が整い、暮らしの速度が変わっていく。夢二の抒情的な作風は、時代遅れと見られはじめた。

私生活でも、1925年には同棲していた恋人が去り、1928年には母を亡くした。

一度は、仕事に明るさが戻ったこともある。1930年2月、銀座の資生堂ギャラリーで開いた人形展「雛によする展覧会」は、出展作が完売するほどの好評だった。だが、美術研究者・王文萱の論文によれば、売上金は、一緒に人形を作った仲間の取り分まで夢二が使い切った。仲間は減り、期待されていた第2回展も開けず、渡米前には貧しい暮らしに陥っていた。

1931年2月には父も亡くなった。出発を前にした挨拶状には、こんな一文がある。

「技術家も飯の食へる程度には酬ゐられてゐないと,生きてゆくせいがありません.」

そんな夢二に、外国へ行こうと勧めた人がいた。

掛け軸500本、扇子500本が旅費になるはずだった

声をかけたのは、小説家でジャーナリストの翁久允だった。アメリカで長く暮らし、帰国後は『週刊朝日』の編集にも携わっていた。

翁の勧めは、旅をしながら費用を稼げばよいというものだった。白紙の掛け軸500本と扇子500本を用意する。現地で絵を描いて売れば、旅費をまかなえる。

外国語を話せず、海外へ出た経験もない夢二は、この話に乗った。

ただ、売ることだけが旅の目的ではなかった。

前年の1930年、夢二は「榛名山美術研究所」の建設を呼びかける宣言文を発表していた。生活と美術を結び、美術と工芸をひとつにする構想である。その年の末には榛名湖畔にアトリエが完成し、そこで年を越した。

《榛名山賦》は、出発の年に描かれた。題材は春の女神・佐保姫である。

竹久夢二
榛名山賦
1931 絹本着色/二曲一隻屏風

『異国の夢二』を書いたひろたまさきは、夢二が外遊に最も期待したのは「民衆芸術」「産業美術」だったと述べている。暮らしの中で使われる美術を、自分の仕事の先に見ていたのだろう。

アトリエはできていたが、研究所の開設は、産業美術を海外で視察するために延期された。

1931年5月7日、46歳の夢二は翁とともに、横浜から秩父丸で出帆した。

銀座では完売、カーメルでは一つも売れない

最初の滞在地、ハワイでは、翁が費用を負担して日本人移民に向けた講演会と展覧会を開いた。

日本人移民とは、日本から海を渡り、現地に暮らしを築いていた人々である。1930年のハワイでは、日本人は人口のほぼ4割を占めていた。

夢二は約2週間の滞在中に日本画も描いた。そのとき描いた《宵待草》は、現在、ハワイ・ジャパニーズ・センターに所蔵されている。

6月に渡ったカリフォルニアにも、約9万7千人の日本人が暮らしていた。農場で野菜や果物を作る人がいれば、都市で下宿屋、食堂、床屋などを営む人もいた。1924年の移民法で日本からの新たな移民は止まり、それ以前に渡った一世は、米国の市民権を得られない立場で暮らしていた。

夢二はサンフランシスコで、翁の人脈を頼りに美人画を売り歩いた。しかし、大恐慌の直後で、絵を買う客を見つけるのは難しかった。在米の日本人は活動を助けてくれたが、その支援が、そのまま絵の売上になるわけではなかった。

次に夢二が力を入れたのは、銀座で成功した人形だった。

夢二の人形は、古新聞からできている。新聞紙を水につけ、摺鉢ですりつぶし、形を整える。夢二自身が絵と文で手順を示した《どんたく人形の作り方》も残っている。

竹久夢二
どんたく人形の作り方
1930 紙本着色 144 × 26 cm

カリフォルニアの町カーメルでも、日本と同じく古新聞から人形を作った。制作を手伝った洋画家・寺田竹雄の回想によれば、新聞紙をすりつぶして人形の下地を作り、大きな袋を担いで古着屋を回った。買い集めた布は、人形の衣裳になった。

1931年9月24日、セブンアーツギャラリーで展覧会が始まった。会期は7日間。絵20点と人形11点が並んだ。絵の多くは日本から持参したものだったが、人形はアメリカで作ったものだった。

結果は、一点も売れなかったと寺田は回想している。値段が高すぎたのかもしれない、とも。

最終日、9月30日の日記には、こうある。

「すこしゆううつなり.一毛もうれない」

銀座での成功は、海の向こうまでついてこなかった。王は、初めて赴いた海外で、夢二は「ただの一異邦人でしかなかった」と評している。

売れ残った人形は、サンフランシスコの美術商へ持ち込まれたが、希望の値段では売れないと返された。日系人写真家の宮武東洋が買い取った人形もあった。しかし、新聞紙でできたその人形も、ほとんどは鼠に食われてしまったという。

八銭を残して「心豊かなり」

カーメルでの失敗のあとも、夢二は制作を続けた。ロサンゼルスに「YUME ART STUDIO」を持ち、1932年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校などで個展を開いている。

油彩にも積極的に取り組んだ。《西海岸の裸婦》は、裸婦を描くことの少なかった夢二には珍しい仕事である。この絵も宮武東洋が持っていた。

日本画では、カリフォルニアにいながら《日本之雨》を描いた。

竹久夢二
日本之雨
1932 水彩・紙

ロサンゼルスでは支援者の助けを借りて、農村地帯まで絵を売り歩いたという。世話をした人の一人によれば、カーメルとは違い、ここでは絵はかなり売れた。ただ、金はいつも残らなかったという。

1932年2月16日の日記では、夢二は美人画を描き、金に換えようと下町へ持っていく。日記の表記では、十銭のリプトンと八銭のバタを買って、残ったのは八銭だった。

そのあとに、こう続く。

「心細けれど、日本にゐる時より心豊かなり」

金のなさを嘆くだけなら、最後の一文は要らない。日本を離れた夢二には、心細さと一緒に、ここにいる喜びもあったと読める。

1932年9月10日、夢二はサンピドロ港からタコマ号でヨーロッパへ向かった。冒頭のビール箱の蓋は、この船旅で描かれた。

行き先は日本ではなかった。外遊のもう一つの目的、産業美術の視察がまだ残っていた。船はパナマ運河を通り、10月10日にハンブルクへ着いた。

ハンブルクからパリ、リヨン、ジュネーヴを経て、ベルリンへ向かう。途中のパリでは、アメリカからの送金がなかなか届かず、大使館へ通い続けたという。パリでの日記には、貧しい食事のあと、こうある。

「もう10$あるきりだ。」

何も描かない場所が、想像を動かす

ベルリンで夢二は、絵を描くほかに、絵を教える仕事を得た。

招いたのは、美術教育者のヨハネス・イッテンである。二人を引き合わせたのは、日本大使館の商務官だった。イッテンがバウハウスから独立してベルリンで開いた美術学校、イッテン・シューレで、夢二は1933年2月から6月まで日本画を教えた。

イッテン自身も画家だった。バウハウスに着任した1919年に出した石版画集には、《線のリズム》と題した一枚がある。夢二が『線に就いて』を書く14年前である。

ヨハネス・イッテン
線のリズム
1919 リトグラフ(墨一色)

授業は火曜と金曜の午後1時から3時。日本大使館の商務官・今井茂郎が通訳を務めた。

夢二は講義のために、日本語で教科書を2冊書いた。『日本画の概念』と『線に就いて』である。どちらもドイツ語に訳された。

教えようとしたのは、筆の扱いだけではなかった。何も描かれていない余白が想像を促すこと。線が、内面の感情を表すこと。紙を絵で埋める前に、そこに何を残すかを伝えようとしていた。

生徒の一人は、夢二の実技指導に影響を受け、それが美術教育者の道を選ぶきっかけになったと、後に語っている。

夢二自身も、ベルリンで日本画を描き続けた。《水竹居》は、その滞在中の作品である。

竹久夢二
水竹居
1933 紙本着色

《寒月》も、同じ年にベルリンで描かれた。

竹久夢二
寒月
1933 紙本淡彩/掛幅

だが、教室の外では、ユダヤ人の暮らしが脅かされていた。1933年のベルリンは、ナチス政権下にあった。

夢二はユダヤ人の学生たちに日本画を教え、ナチ突撃隊の来襲が予告されるなかでも、最後まで講義を続けたという。

日記には、ユダヤ人の店のボルシュがもう食べられない、ナチスに追われて店を閉めたのだろう、と案じる言葉がある。そのあとに、こう記している。

「避雷針のついた鉄兜をきたヒットラアが何を仕出かすか、日本といひ、心がかりではある。」

通訳の今井は、展覧会や生活の面でも夢二を支えた。夢二はその今井に、一枚の日本画を贈った。《南枝早春》である。この絵は、今井の妻を思い描いて描かれたとされる。画面には「伯林客中」と記されている。

竹久夢二《南枝早春》(1933年、夢二郷土美術館)。出典:夢二郷土美術館「新収蔵品《南枝早春》」
竹久夢二《南枝早春》(1933年、夢二郷土美術館)。出典:夢二郷土美術館「新収蔵品《南枝早春》」

研究所を開く日は、来なかった

1933年9月18日、夢二は靖国丸で神戸に帰着した。横浜を出てから2年4か月が過ぎていた。

不況のなかで金に困り、体調も優れず、気疲れも重なった旅だった。それでも、帰国から約1か月後には台湾へ渡っている。講演をし、滞欧作品の展覧会を開いた。

11月に戻ったあと、病状が悪化して床に伏した。

1934年1月、長野県の富士見高原療養所へ入院した。迎えたのは、所長で医師の正木不如丘だった。夢二の後援者でもあった人である。夢二は結核を患っていた。

海外を見てから開くはずだった榛名山美術研究所は、実現しなかった。

9月1日午前5時40分、夢二は49歳で生涯を閉じた。年譜に記された最後の言葉は「ありがとう」である。

正木には、スケッチ帖を遺した。正木の旧蔵品には、夢二が晩年まで手元に置いた外遊のスケッチがある。

90年あまり、家から出なかった一枚

夢二の旅の仕事は、売れた数だけではたどれない。

イッテンは、夢二から贈られた教科書と水墨画を生涯手元に置いた。1942年の論文では、線の性質や筆による表現について、夢二の教科書の一節を引用している。ベルリンの教室で伝えた考えは、夢二が世を去ったあとも読まれていた。

今井に贈った《南枝早春》も残った。

第二次世界大戦中に日本へ持ち帰られ、その後は遺族が門外不出として保管していた。90年を超えて一家の手元にあった絵は、2026年、今井の息子夫妻から夢二郷土美術館へ寄贈された。

科学調査では、墨や胡粉などの日本画の材料に加え、現地で調達したと思われる緑の絵具が使われていることが分かった。厚みのある紙を4枚つないで彩色した可能性もある。西洋の生活空間に掛ける額装を前提にした仕事だった。

ビール箱の蓋に別れを描いた人が、ベルリンでは、世話になった人の家に掛けるつもりの絵を描いていたのだろう。

2026年秋の特別展「夢二とドイツ」で、《南枝早春》は初公開された。正木が持っていた外遊スケッチからも、ヨーロッパ滞在中の約10点が初めて公開されている。

《ベルリンの公園》も、この展覧会に並んだ。

竹久夢二
ベルリンの公園
1933 ペン・水彩・紙

「FAREWELL AMERICA」と描いた蓋のあとに、教科書があり、贈り物の絵があり、晩年まで手元に置いた外遊のスケッチがあった。夢二を助けた人、夢二から学んだ人が、それぞれの場所で受け取り、残していた。

出典

注

  • 年齢は満年齢で書いた。美術館の年譜の多くは数え年で、没年を51歳とするものもある。
  • 外遊の長さは、竹久夢二美術館が「2年4か月」、佐川美術館がアメリカ約1年3か月とヨーロッパ1年とする。
  • 夢二の日記の引用は、講談社の記事(『異国の夢二』の引用)と王文萱の論文(長田幹雄編『夢二日記』の引用)によるもので、日記の原本には当たっていない。挨拶状、寺田竹雄の回想、人形の後日談、売上金を仲間(堀柳女)の取り分まで使い切った話も王の論文による。
  • 翁の計画、ロサンゼルスで絵を売り歩いた話と世話人の言葉、パリの大使館通い、生徒がユダヤ人だったことと突撃隊の話は、ひろたまさき『異国の夢二』を紹介した講談社の記事にだけ見つかり、美術館の資料では確かめられなかった。
  • 人口の数字は1930年の米国国勢調査による(ハワイは日本人139,631人で総人口の37.9%、カリフォルニアは97,456人)。
  • イッテン・シューレの閉鎖は、バウハウス関係の資料では1934年とされる。夢二の授業は1933年6月までだった。
  • 《南枝早春》の画讃は、夢二郷土美術館の資料では「千九百三十三年 南枝早春 伯林客中 夢生」、ぴあの記事では「客中」が無い。
  • 《西海岸の裸婦》とハワイの《宵待草》は、自由に使える画像が無いため図版を置いていない。《どんたく人形の作り方》は1930年の作品で、カーメルの人形を写したものではない。カーメルの人形の写真は見つからなかった。
  • 夢二の暮らしのデザインについては、読みもの「風呂敷で包む、楽譜で歌う――竹久夢二が暮らしに届けたデザイン」で扱っている。

図版

  • 竹久夢二《榛名山賦》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
  • 竹久夢二《どんたく人形の作り方》 — Public domain / 竹久夢二伊香保記念館。画像: Wikimedia Commons(小川晶子『もっと知りたい 竹久夢二 生涯と作品』2009年より)出典
  • 竹久夢二《日本之雨》 — Public domain / Wikimedia Commons, 「夢二美術館 第1巻 宵待草のうた」学研、1985年出典
  • ヨハネス・イッテン《線のリズム》 — 日本では著作権の保護期間満了(1967年没)。スイス・ドイツでは2037年末まで保護。2026-10-10 オーナー判断で掲載 / シュテーデル美術館(フランクフルト・アム・マイン)SG 3978M、1969年収蔵。『10点のオリジナル・リトグラフ』(1919)第10図出典
  • 竹久夢二《水竹居》 — Public domain / Wikimedia Commons, 「夢二美術館 第1巻 宵待草のうた」1985年、学研出典
  • 竹久夢二《寒月》 — Public domain / Wikimedia Commons, 「夢二郷土美術館所蔵 竹久夢二名品100選」東方出版、2007年、ISBN 978出典
  • 竹久夢二《ベルリンの公園》 — Public domain / Wikimedia Commons, 「夢二郷土美術館所蔵 竹久夢二名品100選」東方出版、2007年、ISBN 978出典

この記事に出てくる作家

竹久夢二

Takehisa Yumeji

1884–1934

ヨ

ヨハネス・イッテン

Johannes Itten

1888–1967