飛行機に見立てた種子は、もともと空を飛ぶ

画家の北脇昇が《空港》で飛行機に見立てたカエデの種子には、もともと風に乗って飛ぶための翼がある。正確には、果実の皮の一端が伸びてできた翼だ。

北脇は、京都で活動したシュルレアリスムの画家だった。シュルレアリスムは、日本語で超現実主義。夢や無意識の働きに目を向け、ふだんの常識では捉えられない現実を探ろうとした文学・芸術の運動である。

この運動がよく使った手の一つに、デペイズマンがある。ものを本来の場所から引き離して別の場所に置き、見る人に違和感を起こさせる方法だ。説明するときに決まって引かれるのが、フランスの詩人ロートレアモンが1869年に書いた一句である。

「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会いのように美しい」

ミシンも傘も、見慣れた道具だ。それが解剖台の上で出会うと、急に見慣れないものになる。《空港》では、カエデの種子が飛行機のように着陸している。1962年の『近代日本の絵画と彫刻』の解説は、この絵の幻想を「ディペーズマン(転位)」によるものとした。デペイズマンのことである。

北脇昇
空港
1937 油彩・カンヴァス 72.5 × 60.5 cm

種子の周りにも、航空施設を思わせるものがある。北脇を研究したマニゴ・ヴァンサンは、枯れたヒマワリの花を管制塔と読み、1962年の解説は「棘皮植物のようなもの」をターミナルにたとえた。読みは一致しないが、題を知ると、種子の周りに着陸の場所を探したくなる。

本当のシュルレアリストは、林檎を見つめて夢を描く

シュルレアリスムの出発点は、1924年、フランスの詩人アンドレ・ブルトンが発表した『シュルレアリスム宣言』にある。ブルトンはそこで、理性の制約や、道徳と美についての先入観を離れて、思考の働きを書き取ることを唱えた。

画家たちも、それぞれのやり方で夢や内面を絵にしようとした。ドイツ出身の画家マックス・エルンストは、木片や葉に紙を当てて鉛筆でこすり、浮かび上がった偶然の模様を絵に生かした。フロッタージュと呼ばれる方法である。

日本では1930年に詩人・美術批評家の瀧口修造がブルトンの本を翻訳し、翌年には画家の福沢一郎がシュルレアリスムを紹介した。

北脇は1901年に名古屋で生まれた。8歳のとき、父が朝鮮半島に渡ったため、京都の親戚に引き取られる。以後、生涯のほとんどを京都で過ごした。

洋画の画塾で学んでいたが、1933年、師の津田青楓がマルクス主義者をかくまった疑いで検挙され、画塾は閉じられた。そこで仲間と独立美術協会京都研究所を組織し、1935年には新日本洋画協会を結成する。

1936年、北脇は京都の地域紙『ニッポン新聞』に、初めてシュルレアリスムについて書いた。書き出しは、小学1年生の女の子の絵の話だ。子供は「一応シユールレアリスト(超現実主義者)かも知れない」という。

同じ文章で、北脇は夢を説明している。夢は現実ではないが、現実と無関係でもない。夢の中に、まったく知らない人や物は出てこないからだ。

「只相互の組合せが突飛な故に、珍奇な別世界を現すに過ぎない。」

冒頭のミシンとコウモリ傘を思い出させる考え方だ。そのうえで北脇が本当のシュルレアリストとして挙げたのは、食べられる林檎をじっと見つめながら、奔放な白日夢を描ける人だった。目の前の林檎は、手を伸ばせば食べられる。それを凝視しながら、想像は別の世界へ進む。

ウドを踊る人に見立てた《独活》は、海外の展覧会より先だった

翌1937年3月、北脇は東京で開かれた第7回独立展に《独活》を出した。独立展は、北脇がおもな発表の場にしていた独立美術協会の展覧会である。題は「うど」と読む。2本の独活の形に、踊る人間のような面白さを見つけて着想したという。

北脇昇
独活
1937 油彩・カンヴァス 117 × 74 cm

ウドは若芽を食べる植物だが、育った茎は木のように長くなる。それでも柔らかく、材木には使えない。からだばかり大きくて役に立たない人を「うどの大木」と呼ぶのは、そのためだ。独活と木の切り株を並べた画面は、この言葉のしゃれにもなっている。けなし言葉に使われるウドが、絵の中では踊り手を務めている。

その年の6月、瀧口修造らが企画した「海外超現実主義作品展」が東京で開かれ、京都にも巡回した。複製写真に加え、水彩や素描、版画などの実物も並べて、総計は377点にのぼった。

この展覧会を見た北脇は、7月に感想を書いた。ただ、《独活》が出たのは3か月前で、シュルレアリスムについて書いたのは前の年だ。身近な植物を別のものに見立てる試みは、展覧会より先に始まっていた。

9月には、京都の大礼記念京都美術館で開かれた新日本洋画協会の第3回展に、《空港》を出した。

北脇がシュルレアリスムを「矛盾の絵画」と呼んだわけ

植物が踊り、飛行機になる。その発想に対して、描写は丁寧だ。1984年の『近代日本の美術 東京国立近代美術館所蔵作品選』の解説は、《独活》を「薄塗りの丹念な描写」と記している。植物が確かにそこにあると感じられるほど、奇妙な役割にも、もっともらしさが生まれる。

では、北脇は本物そっくりに描くことを目指していたのか。1937年の新聞の文章「技術より見た矛盾の絵画」で、北脇は「絵空事」という言葉を取り上げ、絵に描いた餅を例にした。

絵の餅は、どれほど本物そっくりに描いても食べられない。北脇によれば、本物そっくりかどうかは芸術と関係がない。絵のどの部分も餅ではないのに、見る人はそれを餅だと受け取る。文章はこう続く。

「然もそれが餅である事の切実な矛盾感の中に芸術の息吹きは通つてゐる。」

前の年の林檎は、目の前にある食べられる林檎だった。今度の餅は、食べられないのに餅に見える。この文章で北脇は、シュルレアリスムを「矛盾の絵画」と呼んだ。

種子なのに、飛行機にも見える。《空港》も、どちらか一方に決めると面白さが消える。

木片の中の別世界を、ルーペで探す

北脇は、小石や木片、貝殻を小箱に集めていた。シュルレアリスムでは、石や流木のように、それまで芸術の材料にならなかった物を「オブジェ」と呼んで作品に使った。北脇も、集めた物をオブジェと呼んだ。

大きな拡大レンズでのぞくと、肉眼で見慣れたものがまるで違ってしまう。そこに超現実主義の世界がある、と北脇は友人に語ったという。

1938年には、その観察を展覧会場へ持ち込んだ。第4回新日本洋画協会展に「超現実性観測室」を設け、実際の木片などを並べたのである。会場には、それらをよく見るための大きなルーペも置かれていたという。展示を伝えた新聞は、木片の写真を「龍頭の様にも化物の様にも魚の骨の様にも想像することが出来る」と書いた。

目録で北脇は、超現実への入口をこう書いた。

「先づレンズを磨いて具体的に超現実の宇宙構造を観測して」

火星や土星が誰にでも論じられるようになったのもレンズの力による、と続く。超現実も、観測を通じて論じられるものにしようとした。

夢や無意識を探る運動に、北脇は観測室を用意したのである。

シュルレアリスムの画家が、竜安寺の石庭を測る

関心は、植物や木片から、庭全体の仕組みへと広がった。石庭は、シュルレアリスムと無縁の題材ではない。1937年に出た福沢一郎の『シュールレアリズム』は、俳句や石庭、盆石とシュルレアリスムの共通点を説いている。

1939年、北脇は京都の竜安寺の石庭を実測し、その研究を発表した。《竜安寺石庭測図》は、石の位置や庭の寸法を測って描いた図だ。

北脇昇
竜安寺石庭測図
1939 墨・インク・鉛筆・色鉛筆・紙 28.1 × 38.2 cm

当時の新聞によれば、北脇は、15の石を七・五・三と数える石組みの全体が一つの台形をつくり、庭の東西の線から10度傾いていると考えた。

その説では、ある位置からは15石のうち14石しか見えない。残る1石が見えないことが、かえって、その石を見ようとする意欲を起こすという。測っていたのは石の配置だが、考えは見る人の心理にまで及んでいた。

同じ年、北脇はこう書いている。

「芸術は結果に於て感性的である可く、過程に於て知性的なる可きものである。」

完成した絵は感覚に訴えるものであっても、つくる過程では調べ、考えるべきだという。自然科学や哲学の知識を取り入れ、もの同士の関係を図で表す絵へ、北脇は進んでいく。

北脇の回顧展に関わった研究者の大谷省吾は、この探求の狙いを、混沌とした社会の背後にある見えない法則を解き明かし、世界観のモデルとして示すことにあったと捉えた。シュルレアリスムは、そのための手段として使われたという。

仲間が検挙された春、北脇は『易経』の図を出した

1939年、北脇は盟友の画家・小牧源太郎とともに、福沢一郎らが結成した美術文化協会に参加した。ところが1941年4月5日、福沢と瀧口修造が、治安維持法違反の疑いで検挙される。警察は、共産主義とシュルレアリスムのつながりを疑っていた。実際には、二人に共産主義への共感があったわけではない。

北脇は5日後に知らせを受け、その日のうちに小牧へ手紙を書いた。会として対応を誤れば「所詮解散は免れまい」と案じている。

その直後に開かれた第2回美術文化協会展に、北脇は中国の古典『易経』を取り入れた連作を出した。『易経』は、天文や地理、人の世の出来事を陰と陽の変化で説いた書で、もとは占いに使われた。《周易解理図(乾坤)》も、その連作の一つである。

北脇昇
周易解理図(乾坤)
1941 油彩・カンヴァス 90.8 × 116.3 cm

「乾坤」は、天と地、陰と陽を意味する。易の考えを、北脇は植物や色彩と結びつけて描いた。ウドを人間に見立てた絵から、世界の変化や秩序そのものを図にする絵へ、扱うものが広がっている。

この連作には、戦時の情勢に合わせて東洋へ回帰したとみる解釈もある。大谷は日本アーティスト事典でそれを紹介しつつ、東洋と西洋の自然科学を統合しようとした表現とも読めると書いた。別の論文では、当時の新聞記事から、連作が新体制運動の思想を図にしたものでもあると指摘している。新体制運動は、1940年に近衛文麿を中心に進められた、戦時体制のために国民をまとめる運動である。世界の調和を求める絵も、戦時下の社会と接していた。

《空港》の種子は、画家の家の庭で拾われたのか

北脇が少年期から晩年まで暮らした京都の屋敷は、現在の廣誠院である。1997年の回顧展の準備で庭を訪ねた大谷は、高瀬川から水を引いた池の周りに、イロハモミジをはじめ多くの植物があると記した。イロハモミジは、庭にもっともよく植えられるカエデだ。その実にも2枚の翼があり、風に乗って遠くまで運ばれる。

北脇の着想の多くは、この庭から生まれたのではないか。大谷はそう直感したという。

《空港》の種子をそこで拾ったと確かめられているわけではない。それでも、この庭は北脇の絵から遠くない。

2020年、東京国立近代美術館の小企画「北脇昇 一粒の種に宇宙を視る」では、作品に添えて本物のカエデの種子も並べられた。その翼は、画家が空想で付け足したものではなかった。風に乗って飛ぶ仕組みは、もとの植物の中にある。北脇の絵を見たあとでは、手のひらに収まる種子のほうにも、まだ知らない働きを探したくなる。

出典

注

  • 《空港》の出品展と寸法は所蔵館の記録(第3回新日本洋画協会展、72.5×60.5cm)によった。1962年の解説は第7回独立展、71.5×60.0とする。
  • ロートレアモンの詩句は、百科事典マイペディア(コトバンク「ロートレアモン」)の訳による。
  • 北脇の文章の引用は、大谷省吾による『ニッポン新聞』の再録と、マニゴの博士論文の引用の表記による(旧かなのまま。再録では旧漢字を常用漢字に改めている)。
  • 図版の作品は、いずれも東京国立近代美術館の所蔵。画像は Wikimedia Commons による。

図版

  • 北脇昇《空港》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
  • 北脇昇《独活》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
  • 北脇昇《竜安寺石庭測図》 — Public domain / Wikimedia Commons, National Museum of Modern Art, Tokyo, book scan出典
  • 北脇昇《周易解理図(乾坤)》 — Public domain / Wikimedia Commons出典

この記事に出てくる作家

北脇昇

Kitawaki Noboru

1901–1951

マックス・エルンスト

Max Ernst

1891–1976