岸田劉生の《麗子微笑》で、娘が身につけている毛糸の肩掛けは、よその家から譲ってもらったものだった。
その家の娘が、毎日肩に掛けて遊んでいた。劉生はそれを見て、美しいと思った。気に入ったのは、毛糸のほつれや、田舎らしい色の取り合わせだったという。譲り受けた肩掛けは、その後、よく絵に役立ったという。
麗子像を見ると、まず娘の顔に目がいく。けれども、劉生が描きたかった美しさは、ほつれた毛糸にもあった。
娘を油絵で描き始めたのは1918年。以後、油彩だけでなく水彩や日本画でも描き続けた。麗子像とは、その一連の作品を指す。娘の成長を残すと同時に、劉生が何を美しいと感じ、どう描こうとしたかが表れた絵でもある。
娘の肖像で、デューラーに学ぶ
《麗子肖像(麗子五歳之像)》は、麗子を描いた最初の油絵である。題名の「五歳」は数え年。麗子は1914年生まれだった。
当時、一家は神奈川県の鵠沼で暮らしていた。劉生が肺結核の療養のため、前年に移り住んだ土地である。1918年8月下旬に描き始め、途中の中断を挟んで10月8日に完成した。
この頃、劉生は北ヨーロッパのルネサンス絵画に強くひかれていた。若い時期には、雑誌『白樺』を通じてゴッホやゴーギャンに衝撃を受けたが、やがてデューラーらの写実へと関心を移していた。
麗子の肖像に取りかかった前後には、デューラーの色刷りから強い刺激を受けている。劉生は後に、この絵の制作について『色刷会報』で語った。はじめは、デューラーの深さにはとても及ばないと絶望的な気持ちになった。それでも、その深さを得るまで幾度でも取り組もうと決めたという。
翌1919年、『白樺』に発表した文章では、この小さな肖像を描くなかで得たものを、さらに言葉にしている。
「形に即した美以上のものその物の持つ精神の美」
そして、「全体から来る無形の美」。
劉生は、それを「或る処まで会得した」と書いた。同じ文章には、レオナルド・ダ・ヴィンチから教えられたことも多かったと記している。娘を前にした制作には、古い絵を見て学んだことが持ち込まれていた。
ほつれた毛糸を描く
1921年10月15日、劉生は《麗子微笑》を完成させた。冒頭の肩掛けが登場する作品である。
劉生は『岸田劉生画集』で、この肩掛けが田舎の農家の手製だったことを明かしている。そこで暮らす娘が身につけているのを見て譲り受け、絵によく使うようになった。惹かれた理由は、本人の言葉では「毛糸のほつれた美しさや、色の鄙びた取り合わせの美くしさ」だった。
肩掛けの部分には絵具を盛り上げ、毛糸の質感を表している。一方、顔の絵具は薄く塗られている。同じ画面でも、肌と毛糸では絵具の扱いを変えているのだ。
手に持っているものについても、劉生自身が青いみかんだと説明している。題に「青果持テル」と添えられることもある。
顔の描き方にも変化があった。影山幸一は、横に伸ばされた顔の形に、当時劉生が好み始めていた中国の古画の影響を指摘している。デューラーらに学びながら始めた娘の肖像に、別の絵画への関心が加わっていた。
着物を選び、笑う娘を描く
同じ1921年には、水彩でも笑う麗子を描いている。上原美術館が所蔵する《麗子微笑像》だ。同館はその解説に、1921年9月30日の劉生の日記を引いている。
その日の日記には、麗子が早びけで早く帰ってきたことが記されている。劉生は娘に赤と黄の絞りの着物を着せ、中国のかんざしをつけた。そして、「笑つてゐる半身像をはじめて、筆をおく」と書いた。
着物の布は、日記ではメリンスと呼ばれている。細かな染めに向いた毛織物である。上原美術館の作品解説では、この水彩に、絞り染めで生まれる布の凹凸を色の濃淡で表そうとする工夫が指摘されている。
身近にいる娘は、繰り返し描けるモデルだった。ただし、描く側の都合だけでは進まない。美術史家の水沢勉は、細かく観察する劉生にとって身近な人物は描きやすかった一方、職業モデルではない相手にじっとしていてもらう苦労も、日記に残されていると指摘する。
着物を用意し、髪を飾り、姿勢を保ってもらう。麗子像の制作には、娘が父の絵に付き合う時間があった。
自分の肖像画のなかでも、最もすぐれたもの
《童女図(麗子立像)》を描き始めたのは1922年。翌年4月15日に仕上げた劉生は、日記にこう書いた。
「これは余の肖像画の中でも最もすぐれたものであらう」
麗子が身につけているのは、ほかの麗子像にも登場する赤い総絞りの着物である。絞り染めでは、布を糸できつくくくり、染まらない部分を作る。そのため、文様だけでなく、布そのものにも細かな凹凸ができる。
この着物について、神奈川県立近代美術館の作品解説は、細かな柄と、しっとりと重量感のある質感の描写を見どころに挙げている。毛糸のほつれを気に入った劉生は、絞りの着物にも細かく筆を重ねた。
完成の翌月、本作は第1回春陽会展に出品された。
劉生は、こうした写実と、想像による表現をどう考えていたのだろう。
1920年の文章「想像と装飾の美」では、美術の道を二つに分けている。自然の形に即して美を追う道と、心の内にあるものを、自然の形を借りて表す道である。劉生は、どちらも根元には「内なる美」があり、「追求のしかたが違うのである」と書いた。
実物を細かく観察することも、古画から学んで顔の形を変えることも、麗子像の制作には含まれていた。
父の画室から、その後の麗子へ
1923年9月、関東大震災で鵠沼の家が半壊し、一家は京都へ移った。劉生はそこで、中国の宋・元の絵や、初期の肉筆浮世絵を集めることに熱中する。1926年には『初期肉筆浮世絵』を刊行した。
麗子は、数え年5歳から、父が亡くなった16歳までモデルを務めた。油彩や水彩などを合わせると、麗子像は100点以上あるといわれる。
劉生が世を去ったのは1929年、38歳のときだった。
麗子自身も、モデルを務めながら父の画室で絵を学んでいた。後には自ら制作に打ち込み、1962年には『父 岸田劉生』を刊行している。
2002年、渋谷区立松濤美術館で、麗子の生涯を初めて回顧する展覧会が開かれた。並んだのは、麗子自身の油彩画や日本画、出版物、写真、資料である。展覧会には「岸田麗子展 [麗子像]以後を生きる」という題が付けられた。
出典
- 東京ステーションギャラリー「没後90年記念 岸田劉生展」、2019年
- 文化遺産オンライン「麗子肖像(麗子五歳之像)」(『白樺』1919年4月号の引用を含む)
- 岸田劉生「想像と装飾の美 それを持つ特殊の個性によって生かさるべし」『国粋』1920年11月(青空文庫、底本『岸田劉生随筆集』岩波書店、1996年)
- e国宝「麗子微笑」
- 影山幸一「岸田劉生《麗子微笑》──深遠な美のリアリズム「水沢 勉」」artscape、2016年
- 上原美術館「岸田劉生《麗子微笑像》」
- 神奈川県立近代美術館「童女図(麗子立像)」
- 栗原浪絵「岸田劉生における図画教育の展開とその意味―子どもとの関わりを中心に―」『目白大学 総合科学研究』18号、2022年
- 岐阜県美術館「岸田劉生展―写実から、写意へ―」プレスリリース、2020年
- 京都府「京鹿の子絞」
- 京都国立近代美術館「没後50年 岸田劉生展」、1979年
- 岸田劉生『初期肉筆浮世絵』岩波書店、1926年(国立国会図書館サーチ)
- 渋谷区立松濤美術館「岸田麗子展 [麗子像]以後を生きる」、2002年
- コトバンク「岸田劉生」「メリンス」
注
- 没年齢は満年齢で書いた。39歳とする事典もある(生没年月日から数えると、数え年にあたる)。
- 上原美術館の水彩《麗子微笑像》は、Wikimedia Commons にある画像が小さく、図版に置けなかった。
この記事に出てくる作家

岸田劉生
Kishida Ryusei
1891–1929

アルブレヒト・デューラー
Albrecht Dürer
1471–1528

レオナルド・ダ・ヴィンチ
Leonardo da Vinci
1452–1519
