女王と王の物語を、出発前の港で描く

クロード・ロランは、ラクダで旅をするシバの女王を、港から船で送り出した。

17世紀にローマで活動したこの風景画家が、《シバの女王の乗船》を描いたのは1648年。題材は、旧約聖書に登場する女王の旅である。ソロモン王の評判を聞いた女王は、難問で王を試そうと、香料と金と宝石を携えてエルサレムを訪ねた。『列王記』では、その荷を負うのはラクダだ。

この物語でよく描かれたのは、旅の末に女王がソロモン王と対面する場面だった。ところがクロードは、まだ王に会う前の、船に乗り込むところを選んだ。ラクダで行く旅のために、海まで用意したのである。

クロード・ロラン
シバの女王の乗船
1648 油彩・カンヴァス 149.1 × 196.7 cm

題名の女王は、右の石段を下りている。冠をかぶった、ほんの小さな人物である。縦およそ1.5メートルの画面で、冠から足まで10センチほどしかない。

クロード・ロラン《シバの女王の乗船》(部分、石段を下りる女王)
クロード・ロラン《シバの女王の乗船》(部分、石段を下りる女王)

この人物がシバの女王で、これからソロモン王に会いに行く。その手がかりは、画家が石段に残した文字にある。19世紀にクロードの伝記を書いたディルク夫人は、その書き込みを、シバの女王はソロモンに会いに行く、という意味に読んだ。

王との対面を選べば、女王が旅をしてきた目的を描くことになる。けれど、この港には、難問を向ける相手の王はまだいない。目的地さえ画面の外にある。クロードは、2人が会うまでの時間を、港いっぱいに広げている。

この絵では、女王を見つけても鑑賞が終わらない。画家は、彼女のために、どんな場所を、どうやって作ったのだろう。

菓子職人の見習いが風景画家に?

本名はクロード・ジュレ。ロレーヌ地方のシャマーニュに生まれた。生年は1600年とする事典が多いが、1604年か1605年とする美術館もある。

クロードの若い日について、本人を知っていた2人の伝記作者は、違う話を残している。

画家でもあったヨアヒム・フォン・ザントラルトによれば、クロードは菓子職人の見習いだった。少し仕事を覚えると、同業の同郷人たちとローマへ出た。当時のローマには、ロレーヌ地方出身の料理人や菓子職人が数百人も暮らしていたという。この話のとおりなら、クロードが向かったのは、故郷の職人たちが働く町だった。

ザントラルトは、その後の仕事も細かく記している。風景画家の家に引き取られ、台所を見て、馬の世話をし、掃除をした。絵具をすり、パレットや筆も洗った。絵を描く前に、画家の暮らしを支える仕事があった。

一方、伝記作者フィリッポ・バルディヌッチによれば、クロードは12歳で両親を亡くし、木彫家の兄から葉飾りや唐草の素描を習った。ローマへはレース商人の親類と来たという。こちらに菓子職人の話は出てこない。少年時代を一つの話にまとめるには、記録が足りない。

やがてローマで風景画を学び、1625年にはいったんロレーヌへ帰った。1627年にローマへ戻ると、1682年に没するまで、そこを暮らしの拠点とした。

ザントラルトは、そのローマでクロードの近所に住み、ともに郊外へ写生に出た。少年時代の話は伝承でも、野で絵を描く姿は、連れ立って歩いた当人が書き残している。

実物を見つめた末に架空の港を描く

ザントラルトによれば、クロードは夜明け前から夜まで野にとどまり、日の出や日没、夕方の時刻を、自然のとおりに描くことを学ぼうとした。気になる色を見つけると、その場で絵具をその色に溶いた。そして家へ走って帰り、制作中の絵に用いたという。

持ち帰ろうとしたのは、場所の形だけではなかった。その時刻にしか現れない色だった。

ザントラルトとクロードが同じ野にいても、描こうとするものは違った。ザントラルトは、珍しい岩、目立つ木の幹、滝や廃墟を探した。クロードが描いたのは、遠くへ退き、地平線へ向かって小さくなり、空へ傾いてゆくものだったと、ザントラルトは書いている。

その場で描いた素描も残る。《サッソからのパノラマ》は、ローマの港チヴィタヴェッキアの南にあるサッソ付近での写生である。制作年は1649〜1655年とされる。《シバの女王の乗船》を描いた後も、画家は戸外で学び続けていたことになる。

実物を前に描いた一枚を、手放さなかった話もある。バルディヌッチは、教皇クレメンス9世が、その絵を覆い尽くせるほどの金貨を申し出た話を伝えている。それでもクロードは手放さなかった。毎日、木々や葉の違いを見るために使っている、というのが理由だった。

これほど実物を観察した画家が、完成作では架空の土地を描く。

《シバの女王の乗船》の港も、実在の港を写したものではない。クロードは、ローマ近郊やナポリ湾などの風景をもとに、絵の中の場所を組み立てた。こうした絵は「理想風景」と呼ばれる。クロードは、聖書や神話の出来事が起こる場所を、自然の観察から作り上げたのである。

女王の海路は、画家が選んだものだ。画面の中央の低い太陽は、昇ったばかりの朝日である。その海を満たす朝の光の手前には、ザントラルトが見た、夜明け前から野にとどまる日々があったのだろう。

絵の代金は風景だけ、人物はおまけ

女王の港には、絵を注文した人の事情も描き込まれている。

注文したのは、ローマで教皇軍に仕えたフランスの将軍、ブイヨン公だった。絵の右にある丸い塔は、クロードの絵によく出る建物であると同時に、公の家の紋章でもあった。公の家名、ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュは「オーヴェルニュの塔」を意味する。

画家は塔に加えて、石段にも、ブイヨン公のためにローマで1648年に制作した、という書き込みを残した。女王の旅先を告げる文字と、絵の行き先を告げる文字が、同じ画面にある。

公はこの港の絵と対にして、田園の絵も注文していた。《イサクとリベカの結婚のある風景》、《水車》とも呼ばれる絵である。2点とも幅はおよそ2メートル。

こちらの主題も、画中の切り株にある書き込みで分かる。旧約聖書『創世記』に登場する夫婦、イサクとリベカの結婚だ。

ただし、『創世記』24章には、この絵のような踊りや婚礼の宴は出てこない。リベカはラクダに乗って到着し、イサクは彼女を母の天幕に迎え、妻にして愛したと記されている。港の絵に続いて、ここでもクロードは、聖書の言葉の間に一つの場面を設けている。

クロードの絵の中の人物について、バルディヌッチは画家の意外な言葉を伝えている。クロードは、代金をもらうのは風景の分で、そこに描いた人物はただでつける、という意味のことを、よく言っていたという。人物を細く描きすぎる癖を直せなかったためだと、伝記には理由も添えられている。

とはいえ、女王や婚礼の2人を取り去れば、絵の題は失われる。人物は風景の中で小さくても、そこが何のための場所なのかを決めている。

クロードの絵を求めたのは、ブイヨン公だけではない。教皇やスペイン王も顧客だった。バルディヌッチによれば、教皇が彼の風景画を見てからは、高位の聖職者や諸侯がアトリエを訪れるようになった。大金や長い辛抱なしには、手に入れにくい絵になっていったという。

その名声が、別の客も呼び込んだ。

架空の港になぜ『真実の書』が要る?

話は1630年代にさかのぼる。バルディヌッチの伝記では、クロードがスペイン王のための絵を描いていたころ、ようやく形になり始めたばかりの構図が盗まれた。手法までまねた写しが、本人の作品としてローマで売られたという。

注文した人には迷惑がかかり、偽物を買った人はだまされ、クロードの名も傷つく。描くたびに同じことが起きた、とバルディヌッチは続ける。

アトリエには大勢が出入りしていた。クロードには、誰を警戒すればよいのか分からない。そのうえ、自分の持っている絵が本人の作か確かめてほしいと、絵を持ち込む人まで現れた。

そこで作ったというのが、自作の構図を描き留める本だった。本人は「考案の本、すなわち真実の本」と呼んだ。今日、『真実の書』として知られ、原本は大英博物館にある。

バルディヌッチは、ローマのクロードの家で、本人からこの本を見せてもらっている。画家は本を開いて、次のような意味のことを言っていたという。

仕上げた絵は、自分の手でこの本に写してからでなければ手放さない。ここにあなたの絵があるか、ご自身で見てほしい。

これは、完成作を送り出した後にも、画家の手元に構図を残す仕組みだった。紙には注文主の名も書かれた。架空の港であっても、誰のために描いたどの絵なのかは、現実の記録になった。

ただし、この由来だけでは、本の性格は言い切れない。ディルク夫人は1884年の伝記で、素描と油彩にはたいてい違いがあると指摘した。構図や効果を考えるための素描が、登録簿にもなった、と考えたのである。

記録を残すことと、自分の絵を紙の上でもう一度考えること。『真実の書』には、その両方があったのかもしれない。

素描の裏に教皇の甥の名があった

《シバの女王の乗船》に対応するのは、『真実の書』の114番である。ディルク夫人が記録した裏書きには、ブイヨン公のため、とはっきりある。

ここに掲げるのは、油彩ではなく、原本の素描を版画家リチャード・アーロムが写した版だ。1775年に出た。アーロムの版は、原本の色や細部をすべてそのまま移したものではない。

それでも構図は、油彩とほぼ同じである。油彩の石段にある注文主の名は、素描の裏の名と一致する。油彩は公のもとへ渡り、紙の港は画家の手元に残った。

その前の113番には、見覚えのある田園が記録されている。ブイヨン公が対で求めた、あの婚礼の構図だ。番号が続いているなら、注文した2点を続けて写したのだろうと思いたくなる。

ところが113番の裏にあるのは、ブイヨン公の名ではない。教皇インノケンティウス10世の甥、パンフィーリ公の名である。

クロードは同じ構図の油彩をもう1点描いており、そちらは今、ローマのドーリア・パンフィーリ美術館にある。113番は、その絵を指している。

113番に残っているのは、《水車》とも呼ばれるこの田園の構図が、もう一つの注文でも描かれた跡である。同じ構図を描いた絵が2点あれば、どちらのためのページなのか。画面の似方だけでなく、裏の数語が大切になる。

ディルク夫人は、アーロムの版を原本から遠いと書いた。それでも200枚の版は、1777年に2巻の本にまとめられ、何度も刷り直された。アマチュアの画家には手本帳となり、造園家には庭を考える材料となった。

クロードが手元に残した港は、絵そのものとは別の道を通って、多くの人の目に届いた。

クロードの絵の隣に、とターナーは遺言した

《シバの女王の乗船》の隣に、自分の絵を置こうとした画家がいる。イギリスの風景画家ウィリアム・ターナーである。ターナーにとってクロードは、長く手本であり、やがて競い合う相手になった。

ナショナル・ギャラリーは、1815年の《カルタゴを建設するディド》を、クロードの港の絵に並ぼうとしたターナーの最初の絵と説明する。

ウィリアム・ターナー
カルタゴを建設するディド
1815 油彩・カンヴァス 155.5 × 230 cm

ターナーは自作2点をナショナル・ギャラリーに遺すにあたり、展示の場所まで指定した。クロードの「海港」と「水車」の間に、常に掛けておくこと。この海港が《シバの女王の乗船》、水車が《イサクとリベカの結婚のある風景》だった。

もう1点の遺贈作は《霧の中を昇る太陽:魚を洗い売る漁師たち》である。女王を船出させた朝と同じ並びに、漁師たちの朝も掛けるよう求めたことになる。

遺言にまで比較の場を求めるほど、ターナーはクロードの絵を意識していた。ターナーにとって女王の港は、遠くから敬うだけの名作ではなかったのだろう。

女王がどこへ行くかは、石段の書き込みにある。誰のための絵かは、同じ石段と『真実の書』に残った。

そのうえで、女王が船に乗るまでの朝は、まだ終わらない。ソロモンとの会見を描かなかったことで、クロードは旅の結末を画面の外に置いた。石段を下りる女王とともに、見る側も、出発前の港にとどまることになる。

出典

注

  • ザントラルトとバルディヌッチの伝の言葉は、ディルク夫人の本の付録に載る原文と訳から、日本語に訳した。
  • 《シバの女王の乗船》の石段の書き込みと、『真実の書』113番・114番の裏の書き込みは、ディルク夫人の読みによる。
  • 女王の大きさは、所蔵館の画像と記録の寸法から測った。
  • 『真実の書』の原本(大英博物館)の画像は利用の条件が合わないため、アーロムの版で示した。
  • 図版は、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)、シカゴ美術館、アムステルダム国立美術館の所蔵品の画像による(一部はウィキメディア・コモンズの画像)。部分図は、《シバの女王の乗船》の画像から切り出した。

図版

  • クロード・ロラン《シバの女王の乗船》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
  • クロード・ロラン《サッソからのパノラマ》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Helen Regenstein Collection出典
  • クロード・ロラン《イサクとリベカの結婚のある風景》 — Public domain / Wikimedia Commons, National Gallery, London出典
  • リチャード・アーロム《シバの女王の乗船のある港(『真実の書』114番、クロード・ロランの素描による)》 — CC0 1.0(Rijksmuseum) / Rijksmuseum, Amsterdam(RP-P-OB-17.877, 館の題 “Zeehaven met de inscheping van de koningin van Sheba”)— 版元 ジョン・ボイデル出典
  • リチャード・アーロム《イサクとリベカの結婚のある風景(『真実の書』113番、クロード・ロランの素描による)》 — CC0 1.0(Rijksmuseum) / Rijksmuseum, Amsterdam(RP-P-OB-17.876, 館の題 “Landschap met het huwelijk van Isaak en Rebekka”)— 版元 ジョン・ボイデル出典
  • ウィリアム・ターナー《カルタゴを建設するディド》 — Public domain / Wikimedia Commons, National Gallery, London出典
  • ウィリアム・ターナー《霧の中を昇る太陽:魚を洗い売る漁師たち》 — Public domain / Wikimedia Commons, National Gallery, London出典

この記事に出てくる作家

クロード・ロラン

Claude Lorrain (Claude Gellée)

1600?–1682

ヨアヒム・フォン・ザントラルト

Joachim von Sandrart

1606–1688

リチャード・アーロム

Richard Earlom

1743–1822

ウィリアム・ターナー

J.M.W. Turner

1775–1851