
山川秀峰
「きいちのぬりえ」で知られる蔦谷喜一が挿絵画家を志したのは、帝展で山川秀峰の《素踊》に魅せられたからだ。秀峰は鏑木清方に学んだ美人画家で、帝展で二度の特選を受け、47歳で世を去った。
明治31年(1898年)、京都に生まれ、東京で育つ。16歳で日本画家の池上秀畝に入門して花鳥画を学び、のちに清方の門に入って美人画を学んだ。門下では伊東深水と肩を並べる中心的な存在となる。
帝展には大正8年(1919年)の第1回で初入選した。昭和3年(1928年)の《安倍野》で初めて特選を受け、昭和5年(1930年)の《大谷武子姫》で再び特選となる。この作は制作の転換点になったとされる。翌年には審査を受けずに出品できる無鑑査となり、蔦谷が挿絵の道を志すきっかけとなった《素踊》を帝展に出した。秀峰は、舞踊家の身体美に取材した舞踊画に、日本画の新しい人物表現を求めた。
その研究への熱は、昭和13年(1938年)、芳川赳の『現代日本画壇人物論』にも記されている。芳川は、その研究好きを、道楽が過ぎるほどだが芸術家にはよい癖だと書き、「踊百番の研究」を例に挙げた。さらに、清方を江戸の風俗の名手、深水を明治の名手とし、秀峰を大正のモダンに足を踏み入れた画家と見る。そのモダンは「所謂大正時代のモダン」で、昭和のモダンから見れば古典的だという。
展覧会の絵のほかに、版画や挿絵の仕事もした。昭和2〜3年(1927〜28年)には、美術社という出版元から木版画の連作「婦女四題」を出す。婦女四題 秋の女は、ラジオのアナウンサーのヘッドホンを思わせる流行の「ラジオ巻き」に髪を結い、トランプのマークを散らした羽織を着たモダンガールだ。野村胡堂の「銭形平次捕物控」の挿絵や、踊りの絵を描いたポチ袋も手がけている。
昭和14年(1939年)には深水とともに、人物画を研究する青衿会をつくった。戦時中、神奈川県の二宮海岸に疎開用の家を建てる。設計は「新興数寄屋」を唱えた建築家の吉田五十八で、画室は茶室にも使えるように造られている。この家の主屋は、令和7年(2025年)に国の登録有形文化財となった。昭和19年(1944年)12月29日、秀峰は二宮町で脳溢血のため没した。長男の山川方夫は、のちに小説家となる。
戦時中に世を去った秀峰は、注目される機会が少なかった。令和8年(2026年)、鎌倉市鏑木清方記念美術館は約50点を集めた特別展を開いている。
Own a work by Yamakawa Shūhō?
List it for sale on Cugira.



























