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エゴン・シーレ

エゴン・シーレ

Egon Schiele
13 Artworks

少年のエゴン・シーレは、ラテン語の宿題をせずに絵を描いていて、父にスケッチブックをストーブへ投げ込まれた。それでも描き続けたこのオーストリアの画家は、鋭く折れ曲がる線で裸の人体や自分自身を描き、人間の孤独や愛欲をあらわにした。

1890年、ドナウ河畔の町トゥルンで駅長の家に生まれた。息子を技師にしたかった父は、梅毒を患い、1904年末に世を去る。シーレは16歳でウィーン美術アカデミーに入った。時間を区切った課題ではストップウォッチと競うように描き、速さと正確さを備えた「完璧な線」を生涯追い求めた。

手本にしたのは、28歳年上の画家グスタフ・クリムトだった。1908年の美術展で近作を見てからの1年は、その絵を言い換えるように描き、自分を「銀のクリムト」と呼んだ。一方、アカデミーの保守的な教えには反発し、1909年に仲間と「新芸術家集団」を名乗って抗議し、学校を去った。

1910年、20歳になるころにはクリムトのまねからも離れた。肌を赤や緑や黄で描く裸体画が生まれ、自画像も急に増えた。翌春に出会った17歳のヴァリ(ヴァリー)・ノイツィルは、その後4年間、恋人として、モデルとしてシーレを支えた。

1912年、家出した少女をめぐる事件で捕らえられ、わいせつな素描を広めた罪で有罪となった。24日間の拘留中、水彩画に「芸術家を妨げるのは罪だ。それは芽生える命を殺すことだ!」と書きつけた。釈放後、ヴァリーの肖像とほおずきの実のある自画像を対にして描いている。

だが1915年、アトリエの向かいに住むエディト・ハームスと結婚し、ヴァリとは別れた。同年の死と乙女は、ヴァリへの別れの絵と読まれてきた。結婚の数日後には兵役に就き、1917年にウィーンの持ち場へ移ると、制作は最も実り多い時期の一つを迎えた。

1918年3月のウィーン分離派展では、油彩19点と紙の作品29点のほとんどに買い手が付いた。ポスターには、仲間と卓を囲む自分を上座に描いた。末席の空いた椅子は、前月に世を去ったクリムトのための席だった。

その秋、妊娠中のエディトがスペイン風邪で10月28日に世を去った。自らも病んだシーレは、戦争はもうすぐ終わると慰める妹の夫に「戦争は終わった。そして僕は行かなければならない」と語った。妻の死から3日後、10月31日に28歳で没した。

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