
ディエゴ・ベラスケス
ラス・メニーナスを描いたディエゴ・ベラスケスは、サンティアゴ騎士団の審査で、親しい画家たちから一度も絵を売ったことがないと証言された。17世紀スペインの宮廷画家で、のちにフランスの画家エドゥアール・マネが画家の中の画家とたたえた人物である。
1599年、セビーリャに生まれ、画家で理論家のフランシスコ・パチェーコに学んだ。卵を料理する老婆やセビーリャの水売りでは、身近な暮らしを題材に、強い明暗と物の質感を追求した。
1623年、宰相オリバーレス伯公爵に招かれ、24歳で国王フェリペ4世付きの画家となった。王は肖像を気に入り、オリバーレスは今後、王の肖像をほかの画家には描かせないと約束した。
1629年からのイタリア旅行で、絵の下地を暗い赤褐色から明るい灰色に変えた。帰国後は色の透明さが増し、筆づかいも軽くなった。
ブエン・レティーロ宮のために描いたブレダの開城では、勝者の将軍スピノラが敗者と同じ地面に立ち、その肩に手をかける。宮廷の道化や小人の肖像でも、一人ひとりの個性を尊重して描いた。
2度目のイタリア旅行は、王のために絵や彫刻を買い集める旅だった。1650年、ローマのパンテオンで、助手を描いたフアン・デ・パレーハの肖像を展示した。同年11月には、奴隷だったパレーハに解放の証書を与えた。ただし、あと4年仕えることが条件だった。
1652年に王宮配室長となると、宮廷の宿所の差配に絵を描く時間を取られた。その職にありながら描いたラス・メニーナスには、制作中の自分自身を登場させ、鏡に国王夫妻を映した。
1658年に始まった騎士団の審査では148人が証言し、多くが、ベラスケスは絵ではなく宮廷の勤めで暮らしていると述べた。父方の祖母と母方の祖父母が貴族だと証明できず、一度は退けられたが、教皇の特免などを経て1659年に騎士となった。翌1660年、王女マリア・テレサとフランス王ルイ14世の婚礼のため、宮廷の一行と国境へ向かった。宿所と会見の館の飾り付けを受け持ち、マドリードへ戻った後に病に倒れて没した。
作品のほとんどは王室コレクションに留まり、スペインの外で広く知られるようになったのは19世紀だった。1957年、パブロ・ピカソはラス・メニーナスを繰り返し描き直し、この絵の解釈44点を含む58点の連作を残した。
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