
長谷川等伯
長谷川等伯は、墨だけで描いた国宝松林図屏風と、金地に四季の樹木と草花を描いた智積院の障壁画で知られる。能登で仏画を描く「信春」として出発し、狩野派に並ぶ長谷川派を築いた桃山時代の画家である。
天文8年(1539年)、能登の七尾に生まれた。実父は七尾城主畠山家の家臣で、幼いころに染物業を営む長谷川宗清の養子となった。若いころは信春と号し、日蓮宗に関わる仏画や肖像画を描いた。『世界大百科事典』の執筆者・中島純司は、20歳代の作にすでに地方の画家の枠を超える力量を見ている。
元亀2年(1571年)頃、妻と息子の久蔵を連れて上洛したとされる。上京後もしばらくは信春の名を使った。牧馬図屏風や伝名和長年像も、この信春時代の作である。宋・元時代の中国の水墨画を学び、とりわけ南宋の画僧牧谿に傾倒した。
茶人の千利休や大徳寺の禅僧・春屋宗園と親しく交わり、大徳寺の塔頭や三門の絵を手がけた。三玄院には、修行の場に絵は要らないと断られた等伯が、宗園の留守中に上がり込んで襖絵を描き上げたという逸話がある。襖の紙には雲母で桐の紋様が摺られ、絵を描くには向かない。この紙が使われていることから、逸話はおおよそ事実に近いと考えられている。
天正18年(1590年)、等伯は秀吉が造営した仙洞御所の対屋の障壁画を受注しようとした。だが、狩野派の狩野永徳らの申し出で注文は取り消され、永徳はその約1か月後に没した。
翌年、秀吉は3歳で亡くなった長子・鶴松を弔うため、祥雲寺を建てた。等伯は一門を率いて障壁画を描き、いまは智積院に国宝として伝わる。楓図は等伯自身の筆と推測され、桜図は長男の長谷川久蔵の筆と推定されている。久蔵は文禄2年(1593年)、26歳で世を去った。
等伯が語った絵の話は、本法寺の日通が『等伯画説』に書き留めた。日本で最初の本格的な画論とされる。
慶長4年(1599年)に本法寺へ寄進した涅槃図から、等伯は落款に「自雪舟五代」と記すようになった。雪舟から5代目にあたる画系を名のったのである。慶長9年(1604年)に法橋、翌年に法眼に叙され、晩年も京都の寺院で襖絵を描き続けた。慶長15年(1610年)、徳川家康の招きに応じて江戸へ下ったが、旅の途中で病を得た。江戸に着いて2日目に没し、72歳だった。
Own a work by Hasegawa Tohaku?
List it for sale on Cugira.










