二代歌川広重は、《東海道五拾三次》で知られる初代歌川広重の弟子で、その名を継いだ絵師である。師と同じく名所を描く風景画の絵師で、画風もそのまま受け継いだ。代表作は《諸国名所百景》。師が見ることなく世を去った、開港後の横浜も描いている。

初代が世を去った翌年、彼は初代の養女お辰の婿として師の家に入り、「広重」を名乗った。

慶応元年(1865年)のある朝、彼は起きて顔を洗い、妻に「お早う」と声をかけた。けれども朝の膳には箸をつけず、「左樣なら」とだけ言って家を出た。絵筆と師の印を、ひとつに包んで抱えていた。

身を寄せた先は、初代も世話になっていた岸本の家である。町内の顔役も間に入り、「広重」を名乗るのはやめることに決まった。以後、彼は喜斎立祥(きさいりっしょう)と名乗る。

大正3年(1914年)、小島烏水が『浮世絵と風景画』で二代の生涯をたどったなかに書き留めた話である。継いでわずか6年の名を、彼はなぜ手放すことになったのか。

火消しの家の子

二代広重は文政9年(1826年)に生まれた。本名は鈴木鎮平。初代と同じく、幕府の火消しを務める下役、定火消同心の家の子だった。

同じ役目の縁で初代を頼ったらしい。10代半ばで弟子入りし、弘化年間(1844〜48年)ごろから「重宣(しげのぶ)」の名で描き始めた。

角兵衛獅子

重宣と名乗っていたころ、市中では角兵衛獅子が流行っていた。獅子頭をかぶって舞う大道芸である。

重宣はその舞を演目ごとに写し取ろうと思い立った。だが、太鼓に合わせて演目の名を告げる口上は、一度や二度聞いただけでは分からない。何度も呼ぶだけの小遣いもなかった。

そこで、岸本家で「坊ッちやん」と呼ばれていた少年をけしかけ、獅子舞が通るたびに呼び込ませて、根気よく写した。数十の演目を描き上げ、三枚の版画をつないだ横長の浮世絵にして出すと、子どもたちに大いに売れた。

重宣が師に見込まれ、二代目に取り立てられたのは、これがきっかけだったという。小島は「無口で無愛想の彼にも、そんな愛嬌話があつた」と書いている。

師の遺言

初代は重宣をことのほかかわいがった、と小島は書く。初代が梅の木を、重宣が若い女の姿を描き、一幅に並べて署名した掛物も残っているという。

安政5年(1858年)9月、初代は62歳で世を去る。遺言には、重宣に脇差を1本譲ると書いてあった。長く仕えてくれたから、とある。

重宣は久しく随身いたし候事ゆえ ゆつりもの必付申べし脇差 弐本のうち壹本どちらでもやる也

初代の一生は「東海道五十三次――広重の足跡をたどって」にある。

二世広重

師の没後、門人の筆頭だった重宣を娘のお辰に添わせて、家を継がせることになった、と小島は書く。名を継いだ安政6年(1859年)、重宣は34歳、お辰はまだ十代だった。

《名所江戸百景》は、初代が最晩年まで描き続けた名所の版画のシリーズである。師の没後、このシリーズには何枚かの図が描き足された。そのうち安政6年4月の〈赤坂桐畑雨中夕けい〉に、二代は「二世広重画」と書き入れた。

二代の作品を調べた研究者の吉田漱は、彼がこのシリーズに4図を加えて完結させたとみる。そしてこの書き入れを、「自負と責任を公けにした」と書く。

この図の一枚は、ゴッホの手元にもあった。ゴッホが持っていた《名所江戸百景》のうち、いまアムステルダムのファン・ゴッホ美術館に残る13枚の一枚である。

諸国名所百景

名を継いで数か月後、二代は自分のシリーズ《諸国名所百景》を始めた。出版元は、師の《名所江戸百景》と同じ店だった。

その一枚〈肥前五嶋鯨漁の図〉では、銛が上空から落ちてくる。厚い脂肪を持つ鯨には、横から銛を投げても深く刺さらない。そこで五島で銛を打つ役の漁師、羽刺(はざし)は、銛を上空へ向かって投げ、落ちる重さで仕留めたという。

二代目歌川広重
諸国名所百景 肥前五嶋鯨漁の図
1859 木版多色刷

師の《六十余州名所図会》は、全国の国々から基本的に一か所ずつを選んだシリーズだった。《諸国名所百景》は、一つの国から一か所とは限らない。陸奥では、定番の松島に加えて、相馬の野馬追(福島県)と外ヶ浜(青森県)も描いた。

佐渡の金山を、師は外から見下ろす構図で描いた。二代が描いたのは、坑道の中で働く人々である。

二代目歌川広重
諸国名所百景 佐渡金山奥穴の図
1859 木版多色刷

神奈川県立歴史博物館は、二代が名所の選び方と描き方で、師とは違う色を出そうとしたように見える、とする。

シカゴ美術館は、周防の岩国(山口県)の錦帯橋の図を、このシリーズでもっとも名高い一枚とする。

二代目歌川広重
諸国名所百景 周防岩国錦帯橋
1859 木版多色刷 34.8 × 22.9 cm

横浜とアメリカ

安政6年(1859年)に開港した横浜も、二代は描いた。師には描けなかった街である。開港の前の年に、師は世を去っていた。

開港した横浜の異国の人や物を描いた浮世絵は、横浜絵と呼ばれる。その代表的な絵師の一人に、二代も数えられる。

文久元年(1861年)に三枚つづきで出した《亜墨利加賑之図(あめりかにぎわいのず)》は、アメリカの街の賑わいを描いている。吉田は、海外の版画や挿絵を参考にしたのかもしれない、と書く。そのうえで、この「いささか荒唐無稽な外国風景」について「想像力を遠くに馳せたのは面白い」と続ける。

二代目歌川広重
亜墨利加賑之図
1861 木版多色刷/大判三枚続 37.2 × 75.2 cm

家を出る

師の後妻で、重宣には姑にあたるお安は、彼を本名の鎮平で呼んで、外でこう愚痴をこぼしていたという。

鎮平といふ弟子を直して娘の養子にしましたが、絵が下手で困ります。もっと一生懸命になってくれればと思って居ります

夫婦に子はなかった。小島は二代を「愛嬌のない人」と書き、のちに婿に入る弟弟子の重政を「女に好かれさうな性質の人」と書く。伝わるのは、こうした家の中の話である。ただ吉田は、二人の人物像があまりに対照的で、「離縁話ができ過ぎると思われる程である」とも書いている。

慶応元年(1865年)、冒頭の朝が来る。家を出たことは、そのまま婿養子の縁を切る離縁になった。のちに彼は、別の妻を迎えている。

お辰はそのあと、重政を婿に迎えた。重政も広重の名を継ぐ。のちに三代広重と数えられる人である(「汽車と煉瓦街の東京――開化絵を描いた三代広重」)。

その重政は、三代目と呼ばれるのを嫌った。そして自分を二代広重と名乗った、と小島は書く。重宣を、二代には数えなかったのである。

立祥

立祥となった翌年の慶応2年(1866年)、幕府はパリ万国博覧会に送る絹の画帖を、町奉行を通じて江戸の浮世絵師たちに描かせた。立祥はそのうち江戸名所の12図を受け持った。選ばれた絵師のなかで最も多い。絹を受け取ってから納めるまで、2か月ほどしかなかった。

貿易商の注文で、輸出する茶の箱に貼る絵も描いた。外国人のあいだでは「茶箱廣重」の名で重宝されたという。吉田の作品目録に載る茶箱の絵も、5図のうち4図の署名は「広重」である。

輸出用の茶箱に貼った「広重画」の錦絵の写真。題は「大日本名所之内 武蔵多満川之里」。明治初年のものとされる。出典:埼玉県立図書館デジタルライブラリー(CC BY)
輸出用の茶箱に貼った「広重画」の錦絵の写真。題は「大日本名所之内 武蔵多満川之里」。明治初年のものとされる。出典:埼玉県立図書館デジタルライブラリー(CC BY)

提灯と凧

明治になると、世の中は浮世絵どころではなくなった。浮世絵では食べていけず、二代は写本をしたり、提灯や凧、燈籠に絵を描いたりして暮らした。旗本が住んでいた大きな空き家を借りて住んだ。薪や炭、米や塩は岸本家が運び、暮らしを支えた。

明治2年(1869年)9月17日、二代は44歳で世を去った。葬式はさびしかった。ふだん贔屓にしてくれた町の鳶の者たちも、みな自分の暮らしに追われて顔を見せなかった。何くれとなく世話を焼いたのは、岸本家である。

離縁された身で世を去ったので、広重の家の寺、浅草の東岳寺には葬られなかった。亡くなった人の名を寺が書き留める過去帳にも、広重代々の墓にも、彼の名は無い。

葬られたのは赤坂の清巌寺で、寺は明治10年に絶えた。子のない二代の墓は、無縁墓としてほかの墓と一緒に納められたという。代々の広重のうち、墓所が分からなかったのは二代だけだった。

1991年、吉田は清巌寺の過去帳に二代の名を見つけたと報告した。そこには「宝誉樹林信士 九月十七日 鈴木立祥」とある。広重の名は書かれていない。

数え直し

重宣を二代、重政を三代と数え直したのは、明治44年(1911年)12月のことである。決めたのは、四代広重を継いだ菊池貴一郎で、名家の絶えるのを憂えて話し合いをまとめた。

菊池は、岸本家の夫人の弟だった。角兵衛獅子を呼び込んだ、あの「坊ッちやん」である。二代の晩年の暮らしを助け、その最期にも立ち会っていた。

二代目歌川広重

Utagawa Hiroshige II / Utagawa Shigenobu

1826–1869

出典

  • 小島烏水『浮世絵と風景画』前川文栄閣、1914年
  • 中山道広重美術館「生誕200年記念 二代広重―広重イズムの在処(ありか)―」展の展覧会頁、2026年
  • 『日本人名大辞典』
  • 吉田漱「二代広重考(一)—墓所解明と作家論—」『浮世絵芸術』100号、1991年
  • 吉田漱「二代広重考(二)—二代広重作品目録(未定稿)—」『浮世絵芸術』101号、1991年
  • 岡畏三郎編「広重年譜」二代・三代の部『浮世絵芸術』18号、1968年
  • 藤懸静也『浮世絵』1946年
  • 大英博物館の人名録
  • 『世界大百科事典』
  • 横田洋一「三代広重と文明開化の錦絵(一)附、三代広重下絵画稿類」『神奈川県立博物館研究報告―人文科学―』13号、1987年
  • 内田實『広重』1930年
  • 山口桂三郎「広重資料 安藤家の由緒書と親類書―附 二通の遺言書」『浮世絵芸術』27号、1970年
  • 関根黙庵『本朝浮世画人伝』1899年
  • 形井杏奈「喜斎立祥(二代歌川広重)「東京名所三十六花撰」についての一考察」『浮世絵芸術』188号、2024年
  • 国立国会図書館 電子展示会「錦絵と写真でめぐる日本の名所」
  • 朝日新聞マリオン欄「美博ノート」2019年
  • 神奈川県立歴史博物館「今月の逸品」2020年8月
  • 『日本大百科全書』「横浜絵」(永田生慈)
  • シカゴ美術館とファン・ゴッホ美術館の記録

注

  • 二代の生涯と人柄、離縁の朝、角兵衛獅子、師弟の掛物、家を継がせたいきさつ、名を継いだときの年齢、パリ万博の画帖の受け持ち、茶箱の絵の注文、晩年と葬式、名の数え直しは、小島烏水『浮世絵と風景画』による。
  • お安の言葉は吉田漱の論文に引かれた内田實『広重』、「茶箱廣重」の呼び名は藤懸静也の著書による。
  • 遺言は山口桂三郎の翻刻から引き、初代の没年齢は関根黙庵『本朝浮世画人伝』による。
  • 制作年と寸法は各図版を所蔵する機関の記録に従い、〈赤坂桐畑雨中夕けい〉の月は改印による。

Images

  • 二代目歌川広重《名所江戸百景 赤坂桐畑雨中夕けい》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Gift of Chester W. WrightSource
  • 二代目歌川広重《諸国名所百景 肥前五嶋鯨漁の図》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Bruce Goff Archive, gift of Shin'enkan, Inc.Source
  • 二代目歌川広重《諸国名所百景 佐渡金山奥穴の図》 — パブリックドメイン(国立国会図書館デジタルコレクション) / 国立国会図書館デジタルコレクションSource
  • 二代目歌川広重《諸国名所百景 周防岩国錦帯橋》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Bruce Goff Archive, gift of Shin'enkan, Inc.Source
  • 二代目歌川広重《亜墨利加賑之図》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Gift of Emily Crane ChadbourneSource