小林清親(1847〜1915)は、明治の東京を木版画に描き、「光線画」と呼ばれる風景版画で知られた浮世絵師である。
明治12年(1879)の《高輪牛町朧月景》の舞台は、高輪の海岸。いまのJR田町駅と品川駅のあいだにあたる。明治5年(1872)に新橋と横浜を結んだ日本で初めての鉄道は、このあたりで、海に築いた堤の上を走っていた。
当時この線路を走っていたのは英国製の機関車だったが、清親が描いたのは米国型だった。清親が、鉄道を描いた米国の石版画を参考にしたためだ、という説がある。
幕府に仕えた青年が、絵師になるまで
清親は弘化4年(1847)、江戸・本所の御蔵屋敷に生まれた。父はそこに勤める役人で、清親は9番目の子だった。
家は将軍に直接仕える御家人で、文久2年(1862)に父が没すると、清親は15歳で家を継いだ。1865年には将軍に従って京都と大坂に滞在している。
慶応4年(1868)の伏見の戦いには、幕府方として加わった。江戸に戻って江戸城の明け渡しを見届け、明治になると、徳川家に従ってほかの旧幕臣とともに静岡へ移った。静岡では剣術の師範から漁師まで、さまざまな仕事を転々としたという。
明治7年(1874)、清親は東京に戻る。2年後には版画を出しているが、そのあいだにどこで絵を学んだのかは、分かっていない。大正2年(1913)に書いた自伝「清親自画伝」は、幕府が倒れたところで終わっている。
辞典の多くは、清親が、英国の絵入り新聞の通信員で挿絵画家でもあった英国人の画家に、西洋画を学んだと書く。けれども、清親がその画家に学んだという確かな証拠はない。
一方で、清親が水彩を身につけていたことは、残された写生帖から分かる。写生の多くは水彩で描かれ、のちに東京を描いた版画の下絵とみられるものも多い。
英語の題が付いた東京の風景
浮世絵の版画は、出版元が企画して売り出すものだった。この出版元を「版元」という。
明治9年(1876)1月、清親は両国の版元・大黒屋の主人、松木平吉のもとから、江戸橋と両国橋をそれぞれ描いた版画を2点出した。どちらも三枚の紙を横につないで一つの画面にした作で、これがいま確かめられる清親の最も早い仕事である。
転機は同じ年の8月に来た。松木は、清親の描いた東京の風景を5点出した。《東京新大橋雨中図》はその一つで、ここから東京の風景のシリーズが始まる。最初に摺られたものには、枠の外、絵の下に英語の題が入っていた。
このシリーズは、のちに「東京名所図」と呼ばれる。明治14年(1881)までに出た93点で、いま「光線画」と呼ばれるのは、この作品群である。1月に出た2点は、光線画の前の作とされる。
93点のうち21点は、歌川広重の《名所江戸百景》と同じ場所を描いているという。それでも清親の東京は、江戸の名所とは違っていた。
銀座は明治5年の火事のあと、明治6年に煉瓦造りの町並みに建て替わった。翌明治7年(1874)12月18日には、芝の金杉橋から京橋までの銀座通りに、東京で初めてのガス灯85基がともった。最初の5点には、銀座を描いた《東京銀座街日報社》もある。
清親の東京の風景には、汽車やガス灯のように、江戸に無かった物が描き込まれている。画面の隅に控えめに置かれていることも多い。
輪郭線を使わない浮世絵
江戸の浮世絵は、人物や建物の形を、まず墨の輪郭線でとらえる。清親の東京の風景は、その輪郭線をなるべく使わず、色の面で形をとらえた。空や雲が時刻や天気で変わる様子は、何枚もの色の版木とぼかしで表し、水面に映る灯りは、細い線を重ねて描いた。油絵のように見せるため、画面全体に透明な樹脂を塗った作まである。
版木を彫る彫師と、紙に色を摺る摺師にとっては、見たことのない絵だった。摺師の西村熊吉は、のちにこう振り返っている。
清親さんは、うんと西洋絵も見てゐるんだし、職人の方ぢや、彫師も摺師もまだ、あんな油描きなんかみたこともなかつたわけだ。
「光線画」という言葉の用例で、日付の確かなものとしていま確かめられる最も古いものは、明治28年(1895)に清親自身が出した絵の教本『教化適用毛鉛画独稽古附教授法』にある。
光線画ヲ修ルニハ遠近ノ度光線ノ工合ニ心ヲ注クヘシ
遠近の度合いと光の具合に心を配れ、と清親は書いている。
舶来の石版画や銅版画の影響を受けた、と書く事典もある。冒頭の機関車が米国の石版画をもとにしたという説も、その流れにある。清親の光と影は、のちに西洋の印象派と結びつけて語られたこともあった。1989年には「日本印象派の先駆者」を副題に掲げた清親の展覧会も開かれている。ただし、印象派との結びつきは、後の時代の受け止め方である。
夜の東京と、明治14年の大火
93点のうち、夜を描いた作は20点を超える。夜の作のほとんどは、松木とは別の版元から出た。冒頭の《高輪牛町朧月景》も、次の《池の端花火》も、その版元の作である。
明治14年(1881)の《池の端花火》の舞台は、不忍池のほとりである。奥に見えるのは弁天堂。3年後の明治17年(1884)には池の一部が埋め立てられ、池の周りは競馬場になった。
同じ明治14年の1月26日、両国の一帯で大火が起きた。明治でいちばん大きな火事で、16時間燃え続け、1万棟を超える建物を焼いた。
清親は夜のうちに外へ出て、火事を写生した。その夜の写生帖が残っている。写生から戻ると自宅も焼け落ちていた、とも伝わる。この火事からは、火事を描いた版画が2点、焼け跡を描いた版画が1点作られた。
その一枚が《明治十四年一月廿六日出火 浜町より写両国大火》である。
ところが、明治の日本を研究する歴史家ヘンリー・スミスは、この版画が、清親が以前に描いたいくつもの写生を組み合わせて作られていることを示した。その場で写したように題でうたいながら、絵には作られた部分がある。
この年を最後に、清親は東京の風景のシリーズから離れた。
団団珍聞と戦争の浮世絵
明治14年(1881)、清親は滑稽な絵の連作『清親ぽんち』を始めた。翌明治15年(1882)8月からは、時局を風刺する雑誌『団団珍聞』に、毎号風刺画を描いている。自由民権運動が高まるなか、内閣制度や鹿鳴館での外交、不景気への不満を、軽妙な絵にした。自由民権運動の事件を題材にした肖像の版画は、発売を禁じられている。
明治17年(1884)からは、《武蔵百景》のシリーズを出した。こちらは、広重の《名所江戸百景》に強く影響を受けた風景画で、光線画とは趣が違う。
明治18年(1885)には、歴史上の人物を描いた連作《教導立志基》も出している。
明治20年代には新聞や雑誌の挿絵を多く描き、子ども向けの雑誌から落語や文芸の雑誌、労働組合の機関紙まで手がけた。
明治27年(1894)に日清戦争が始まると、戦争を描いた多色摺りの浮世絵を数多く出した。そこでも、光線画と同じ光と影の描き方が使われている。
同じころ、文を添えた風刺の浮世絵《日本万歳 百撰百笑》も描いた。このシリーズは、明治37年(1904)からの日露戦争でも出ている。
清親は50歳を過ぎたころから、筆で描く肉筆画に仕事の場を移し、各地に滞在して絵を描くようになった。日露戦争のころには写真による報道が当たり前になり、戦争を描いた浮世絵は姿を消していく。清親も、日露戦争の浮世絵を最後に、版画から次第に離れていった。
木下杢太郎の小論と、荷風の『日和下駄』
明治の末には、清親の東京の風景は忘れられていた。
それを見つけ直したのは、作家の木下杢太郎である。大正2年(1913)5月、杢太郎は雑誌『藝術』に「小林清親が東京名所圖畫」という小論を書いた。晩年の清親を訪ねてもいる。
大正4年(1915)には、小説家の永井荷風が随筆『日和下駄』で、清親の風景版画をこう評した。
一時代の感情を表現し得たる点において小林翁の風景版画は甚だ価値ある美術といわねばならぬ。
同じ年の11月28日、清親は自宅で世を去った。
「最後の浮世絵師」と「明治の浮世絵師」
清親はよく「最後の浮世絵師」と呼ばれる。昭和52年(1977)には、この言葉を書名にした清親の本も出た。
練馬区立美術館の学芸員・加藤陽介は、この呼び名の理由を、印刷の技法が増えていく近代にあっても、清親が多色摺りの浮世絵にこだわり、最後までその可能性に望みをかけたことに見ている。そのうえで加藤は、浮世絵師という枠を外したときに、近代の画家としての清親の新しさが見えてくる、とも書く。
2016年、町田市立国際版画美術館は清親の展覧会で、清親を「明治の浮世絵師」と呼んだ。江戸の浮世絵の定番だった役者や美人を主な題材にせず、社会の動きや新しい媒体に向き合い続けた、という見方である。
巴水が好んだ風景版画家
清親が世を去った大正4年(1915)、東京の出版元が、来日していた外国人画家の絵を木版画にする試みを始めた。のちに新版画と呼ばれる木版画の始まりである。
その風景版画を代表する一人が、川瀬巴水だった。巴水の版画は、広重に似ていると言われた。昭和10年(1935)、巴水は随筆にこう書いている。
広重の風景画を模倣追随などしません。広重よりはどちらかと言へば、明治の小林清親の方が好きです
その5年前、巴水と同門の日本画家・伊東深水は、巴水の展覧会に寄せて、こう書いていた。
川瀬巴水君は実に清親以後の風景版画家として唯一の存在です。
清親と巴水には、それぞれ「明治の広重」「昭和の広重」という呼び名がある。広重・清親・巴水のあいだに、師弟のつながりはない。2021年、町田市立国際版画美術館は「浮世絵風景画―広重・清親・巴水 三世代の眼―」で、三人の風景版画を並べた。
出典
- 町田市立国際版画美術館「清親―光線画の向こうに」資料、2016年
- 町田市立国際版画美術館「浮世絵風景画―広重・清親・巴水 三世代の眼―」資料、2021年
- 練馬区立美術館・静岡市美術館「没後100年 小林清親展」解説、2015年
- 太田記念美術館「闇と光―清親・安治・柳村」解説と報道、2022年
- 江戸東京博物館の収蔵品解説
- 小山周子、江戸東京博物館紀要、2019年
- 村田大輔「小林清親の手法」『兵庫県立美術館研究紀要』
- 田淵房枝「小林清親の「光線画」をめぐって」『人文論究』2015年
- 赤井正二の木下杢太郎論『立命館産業社会論集』2013年
- 加藤陽介 "Edo and Tokyo as Viewed by Kobayashi Kiyochika, the 'Last Ukiyo-e Artist'" Discuss Japan、2015年
- ジェームズ・ウラック "Kiyochika's Tokyo" MIT Visualizing Cultures
- プリンストン大学美術館の作品解説
- 文化庁と港区の高輪築堤の解説
- 国立国会図書館の書誌と解題
- がす資料館の展示資料
- 大田区立郷土博物館の川瀬巴水コラム
- うらわ美術館「THE 新版画」展の概要
- コトバンク所収の各事典
注
- 西村熊吉の言葉は、村田大輔の論文が引く聞き書き(1933年)から引いた。
- 光線画の教本の一文は、田淵房枝の論文から引いた。
- 荷風の評は『日和下駄』(1915年)から引いた。
- 巴水の言葉は「半雅荘随筆」(『浮世絵芸術』第4巻第3号、1935年)から、深水の言葉は「郷土会第十五回 川瀬巴水作品展覧会」のパンフレット(1930年)から引いた。どちらも大田区立郷土博物館のコラムによる。
- 《浜町より写両国大火》が写生の組み合わせであることは、ヘンリー・スミスの論考を引く村田大輔の論文による。
- 光線画の点数や夜の作の点数、光線画の終わった年は、資料によって少しずつ違う。
- 図版は、国立国会図書館、東京都立図書館、ロサンゼルス・カウンティ美術館、メトロポリタン美術館、シカゴ美術館、アムステルダム国立美術館、ウォルターズ美術館の所蔵品のパブリックドメインの画像による。
- 巴水の生涯は「川瀬巴水――日本各地の風景を木版画に残した「旅情詩人」」で、新版画の成り立ちは「新版画とは何か――絵師・彫師・摺師で作る大正・昭和の木版画」で扱っている。
Images
- 小林清親《Japanese Ukiyo-e print work in 1879 shows image of early US steam locomotive with cow catcher》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
- 小林清親《View of Rainfall on Shin-Ou-hashi in To-kei》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
- 小林清親《Fireworks at Ikenohata》 — CC0 / This file was donated to Wikimedia Commons as part of a project by the Metropolitan Museum of Art. See the Image and Data Resources Open Access PolicySource
- 小林清親《The Ryōgoku Fire Sketched from Hamachō on the 26th of January》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
- 小林清親《武蔵百景之内 品川見越ノ月》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Clarence Buckingham CollectionSource
- 小林清親《Oda Nobunaga,, from the series Instruction in the Fundamentals of Success》 — Public domain / Wikimedia Commons, 東京都立図書館Source
- 小林清親《Onze vloot brengt Chinese oorlogsschepen tot zinken tijdens de slag in de Gele Zee》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
- 小林清親《As the Japanese army advances, a Chinese general is shown disguising himself as a woman》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
この記事に出てくる作家

小林清親
Kobayashi Kiyochika
1847–1915

歌川広重
Utagawa Hiroshige
1797–1858

川瀬巴水
Hasui Kawase
1883–1957

伊東深水
Itō Shinsui
1898–1972
