古道具屋の林が、黒田に絵を勧めた
1886年、パリで日本の美術品を商う日本人、林忠正は、雑誌『パリ・イリュストレ』の日本特集号に本文の多くを書いた。その書き出しで、林は雑誌に問いかけている。なぜこの役を自分に任せたのか。日本の美術を集める批評家フィリップ・ビュルティのような文人に、任せるべきだった、と。そして、こう続けた。
私は文人ではなく、ただの、わが国の美術品の商人だ。もっとも、目利きでもあるが。
この言葉には、林の仕事が持つ二つの面が重なっている。作品を売る商人であることと、その作品を語り、目利きとして見定めることだ。
林の店は日本の版画や工芸品を扱い、客には収集家のほか、クロード・モネやエドガー・ドガら画家もいた。
同じ年、パリで法律を学んでいた黒田清輝は、父への手紙で林を「古道具屋」と紹介した。その林や画家の山本芳翠らは、日本の美術が西洋に及ばないことを嘆き、黒田に絵を学ぶよう、しきりに勧めていた。黒田は、少し絵を始めてみようかと父に書いている。
5年後、フランスの画家カミーユ・ピサロも、息子への手紙で林を「顔見知りの日本人、骨董商の林」と呼んだ。
林がパリに来たのは1878年。パリには、それより前から日本の美術への熱があった。
万博の「日本」は二つに割れていた
林が来る11年前の1867年、日本はパリ万博に初めて正式に参加した。幕府は、江戸の浮世絵師に描かせた女の姿50点と風景50点を、2冊の画帖にして並べた。
しかし、会場に「日本」は一つではなかった。薩摩藩が幕府とは別に「琉球公国」の名で申し込み、独自の展示場を確保していたのである。幕府の使節がそれを知ったのは、フランスに着いてからだった。話し合っても、展示場は一つにならなかった。
出品は全体の1%に満たなかったが、大きな注目を集めた。11年後、批評家エルネスト・シェノーは、この万博をこう振り返っている。
1867年の万博が、日本の流行を決定づけた。
万博のあと、1868年からは、ビュルティら日本の品を好む画家や批評家が毎月日曜に集まった。飲んでいた酸っぱい安ワインの俗語「ginglard」を日本風に綴り、会を「ジャン=ラール」と名づけた。同じ年、批評家ザカリー・アストリュックは、モネを「北斎の忠実な弟子」と呼んでいる。
1872年、この熱に名前が付く。ビュルティが週刊誌の連載に「ジャポニスム」という題を付けたのである。同じ年、批評家ジュール・クラルティは、日本をまねる画家たちの流行を「病」「熱病」と呼び、「それにはもう名前が付いている。ジャポニスムだ」と書いた。
フランス語の理由は、ナポレオンだった
1878年、パリ万博がふたたび開かれると、日本部の品はほんの数日で、途方もない高値で収集家にさらわれた。シェノーは「もはや流行ではない。熱狂であり、狂気だ」と書いている。その会場の売り場に、林忠正が立っていた。
越中高岡の医者の家に生まれた林は、東京でフランス語を学んだ。なぜフランス語だったのか。ずっと後に作家エドモン・ド・ゴンクールに問われて、林は、日本でナポレオンの歴史が人気だったからだ、と答えている。
東京大学まで進んだが、卒業を目前にやめた。フランスで工学を学ぶつもりだったという。林を雇ったのは、輸出のために政府の後押しでつくられた商社、起立工商会社である。副社長はフランス語ができず、林はパリ万博の通訳兼販売員として招かれた。
会社の売り場には、ほどなく画家たちが訪ねてきた。批評家や「印象派」と呼ばれた画家たちが長く足を止め、知りたいことに何でも答える林と親しくなったという。
万博が閉じても、林は帰らなかった。パリの日本美術熱を目の当たりにして、とどまると決めたのだという。売れ残った品を処分するために残り、それが商売の始まりになった、とする記述もある。
のちに同業のジークフリート・ビングは、そのころの林をこう書いた。副社長の説明を訳して愛好家に伝えるうちに、美しい品の奥にある謎を深く知りたいという願いが芽生えた、と。
1884年、林は自分の名の店を開いた。うたい文句は「日本美術の情報と案内」。2年後には、パリの中心部のヴィクトワール通りに移る。
40フランの歌麿が、1050フランになった
シェノーによれば、1862年ごろに1枚2〜5フランした色刷りの版画が、1878年には大きな雑貨の店で何千枚も、平均10サンチームで売られていた。20分の1から50分の1になった計算である。
一方で、値が跳ね上がった版画もある。早くから日本の美術を集めていたゴンクールは、喜多川歌麿が海女を描いた三枚続(三枚で一つの図になる版画)を、40フランで買った。5、6年後、ビュルティの遺品の競売に出た同じ図は、1050フランで落札された。
ゴンクールはこの値を、のちに林の助けを借りて書いた本『歌麿』の注に記した。同じ版画はフランスに3点、アメリカに1点しか知られていない。林が日本で探させても、まだ手に入らない、と。下は、その三枚続の中央の一枚である。
では、林は版画をどこから仕入れていたのか。1887年5月、日本へ発つ前の晩に、林はゴンクールを訪ねた。日本に3か月いて、地方の小さな町の道具屋を「すっかりすくい取る」つもりだという。ヴェルサイユへ骨董を探しに行くような口ぶりだった、とゴンクールは日記に書いた。
1890年から1901年までに、林は日本から15万枚を超える版画を送らせた。同じ期間に、絵本9708冊、掛け軸846幅も送らせている。
林の手を経た版画には、林の印を押したものがある。鳥居清長の《四代目岩井半四郎》の左上にある朱の丸印を、所蔵するアムステルダム国立美術館の記録は、林の印としている。
「偽金でも作っているのですか」
1891年12月の日記に、ゴンクールは林の店のことを書いた。売り買いは扉を閉めた部屋で客ごとに行われ、取り次ぎを立てなければ、林にはまったく近づけない。こう言ってやりたくなる、とゴンクールは書き添えた。
偽金でも作っているのですか。
ゴンクールは、そのわけにも見当をつけていた。東洋の商人は、売り物をいつも少し隠したがる。あまりに多くの人に見られた品は、値打ちの一部を失うと知っているからだ、と。閉じた扉は、品の値打ちを守る扉でもあったのだろう。
林と覇を競ったもう一人の日本美術商が、ハンブルク生まれのビングである。ビングは1880〜81年に弟と日本を旅し、現地の商人と取引する手づるを作った。
収集家で美術史家のレイモン・ケクランは、1890年にビングが開いた日本版画展で版画を知り、林の店で最初の版画を買った。歌川広重の三枚続を2点である。林ともビングとも親しくなったケクランは、のちに二人を「日本とパリのあいだの最も聡明な仲立ち」と呼んだ。
「わけが分からない。日本人が!」
そのケクランが、林と画家たちのあいだの取引を書き残している。画家たちは林の扱う名品を欲しがり、林も好きな画家の絵で部屋を飾りたかった。自分の国の風景画家が好む明るい透明さに慣れた林の目は、モネの画布の繊細な筆づかいを楽しんだ。ドガのパステルに詰め込まれた生の強さは、林に日本の名だたる素描家を思い出させた。
だが、世間はまだ印象派も日本の品も見いだしておらず、仲間うちの苦しい暮らしでは、買うことなど考えられない。そこで画家は絵を、林は日本の品を差し出して、交換した。
モネは、当時は売れなかった絵と引き換えに、林から見事な版画と美しい陶器を得た。ドガは林から得た画帖の代わりに、貴重な素描を何枚か渡した。とくに菱川師宣の画帖を、ドガは今も拝まんばかりに大事にしている、とケクランは書く。清長の二枚続を、林はドガに贈ってもいる。湯浴みする女たちの図で、ドガの描く裸婦に似たところがある、という見立てだった。
ピサロとのあいだは、少し調子が違う。1891年、画商がピサロの新作3点を見に来るよう林を誘うと、林は近作は好まないと答えたらしい。ピサロは息子への手紙に「わけが分からない。日本人が!」と書いた。林は、画家の作品を選ぶ側にもいた。
ケクランによれば、林は版画を半ばしか楽しまなかった。財産の大部分は版画に負っていたが、林の喜びは、版画のおかげで集められた近代の絵のほうにあった。集めた絵を、林はいずれ東京の美術館に収めるつもりでいた。日本の美術に触れて西洋の伝統を新しくしたフランスの画家たちを、今度は日本の画家が学べるように、と。
「疲れ果てて死んだのです」
日本の本や画帖を読み解く知識も、林はゴンクールに伝えた。ゴンクールは『歌麿』で、本文の訳を林に負うと記し、林を「聡明で、学があり、感じのよい」人と呼んだ。いまの日本研究家はみな、仕事の資料としての値打ちをすべて林に負っている、とも書いた。
1888年5月13日の日記には、ゴンクールの画帖を手早くめくりながら、子どものように笑う林がいる。林は「日本の絵師は大変な変わり者ですよ」と叫び、月見の邪魔になる隣家の屋根の角を提灯で焼き落とそうとして、江戸の一部を焼いてしまった男の話をした。
同じ日、二人は歌麿のシリーズ《十二時》もめくった。『歌麿』によれば、その6枚目の図の前でゴンクールが、この女を描いた男は女の体を愛した人だったに違いないと言うと、林は「おっしゃるとおり」と答え、こう続けた。
疲れ果てて死んだのです。
ゴッホの広重に、5センチの鉛筆線
1886年2月、画家フィンセント・ファン・ゴッホが、弟テオのいるパリに出てきた。その冬、ゴッホはビングから660枚の木版画を買う。店の屋根裏には安い版画が何千枚もあり、ゴッホはそこから、名高い高価な作品ではなく、明るい色と心を引く題材のものを選んだ。1枚の値は平均15サンチーム。コーヒー1杯と大差ない、と美術記者のマーティン・ベイリーは書く。
660枚は、売るつもりで買ったらしい。その商売は実らなかった。それでも1888年の手紙でゴッホは、金では損をしたが、おかげで日本の美術を落ち着いて長く見る機会になった、とテオに書いている。
版画は、アトリエの壁にピンで留められた。ファン・ゴッホ美術館にあるゴッホ旧蔵の広重《名所江戸百景》13枚のうち、12枚にはゴッホによるピンの穴が記録されている。
1887年の秋、ゴッホは手元の版画を油彩で写しはじめた。最初が、広重の〈亀戸梅屋舗〉を写した《花咲く梅の木(広重による)》である。版画に紙を重ねて輪郭を写し、方眼を引いて少し大きくしてから、カンヴァスに移した。2025年、大英博物館の科学者が、ゴッホ旧蔵のこの版画の右上に、長さ5センチの鉛筆の線を見つけた。残っていた透写図の、切り取られた部分とぴったりつながる線だった。透写の紙を重ねる位置の目印で、ゴッホが写したのはこの一枚だったと確かめられた。
下の広重の一枚は、ゴッホの旧蔵とは別の摺りである。
構図は正確に写し、色はずっと強めた。広重の幹の黒と灰は、赤と青の色調に替えている。標準寸法のカンヴァスは版画より幅が広かったので、両脇に橙の帯を塗り、ほかの日本の版画から写した文字を書き入れた。庭の場面とは関係のない文字である。
続いて〈大はしあたけの夕立〉を写し、《雨中の橋(広重による)》を描いた。今度は原画の縦横の比を保つために四辺に縁を残し、そこを日本の文字で埋めた。この図でゴッホをひきつけたのは、おそらく雨だった。
ゴッホの手紙に林は出ず、書簡集の注にだけ現れる
写した3点目は、渓斎英泉の花魁の図だった。手本は、冒頭の『パリ・イリュストレ』の日本特集号の表紙である。英泉の原図では花魁は右を向くが、表紙では左右が反転していて、ゴッホの《花魁》も左を向く。ゴッホは、林が本文を書いたこの号を見ていた。
ゴッホは表紙の図を方眼で写して大きくし、木版のような明るい色と太い輪郭で描いた。周りには睡蓮の池や竹を描き、鶴と蛙を添えた。鶴(grue)も蛙(grenouille)も、娼婦を指すフランスの俗語だった。
その号は2万5000部刷られ、売り切れた。郷里の弟に送った一冊の表紙に、林自身がそう書き込んでいる。
本文の日本美術の節で、林は、日本の絵を空想や戯画だけのものと見るのは大きな誤りだ、と書いた。「日本人の性格」の節では、国じゅうに共通するものに祖国愛や礼儀、忍耐と並べて「美術の感覚」を挙げ、日本人は控えめだが根は深く考える、と書いている。文人ではないと書いた林は、結びに、自分の文で日本についての誤った考えのいくつかを追い払えたなら幸せだ、と記した。
1888年5月、ビングは月刊誌『芸術の日本』を創刊する。南仏のアルルにいたゴッホも、少なくとも最初の2号を受け取っていた。その年の9月、ゴッホはテオにこう書いた。
日本の美術を学ぶと、疑いなく賢く、哲学者で、聡明な人が見えてくる。その人は何に時を費やすのか。地球と月の距離を調べるのか、いや。ビスマルクの政治を調べるのか、いや。たった一本の草の葉を調べるのだ。
ゴッホの書簡集は、この一節に注を付けて、二つの文を挙げる。一つは『芸術の日本』の創刊号の一文で、日本の芸術家は、創造物のどんなものにも、「たとえ一本の小さな草の葉でも」芸術に入る値打ちがあると信じている、という。もう一つが林の「日本人の性格」の節である。賢い日本人というゴッホの像がどこから来たのか。研究者の小寺司は、その出どころの一つにこの節を挙げる。
ゴッホの手紙の本文に、林の名は出てこない。書簡集で林の名が出るのは、この注だけである。
「広重はみごとな印象派だ」
ケクランが版画を知った1890年の日本版画展は、パリのエコール・デ・ボザールで開かれた。画家のメアリー・カサットは、色刷りの版画を作りたいと願う友人に書き送っている。ボザールの日本の版画をぜひ見に行こう、あなたにはこれ以上美しいものは夢見られない、私は銅版の色のことしか考えていない、と。翌1891年、カサットは色刷りの版画10点を発表した。その一つ《沐浴する女》は、色や構図、模様の選び方を、広重ら日本の版画家に倣っている。
1893年には、ビングがデュラン=リュエルの画廊で歌麿と広重の版画展を開いた。見に行ったピサロは、会場でモネにも会っている。息子への手紙には「広重はみごとな印象派だ」とあり、この日本の画家たちは私たちの見方を確かめてくれる、と続く。
「歌麿に何を求めるのですか」
1898年、林は1900年のパリ万博の事務官長に選ばれた。反感を持つ人も日本にはいたが、代わる人がいなかったという。条件は、商いをやめ、店を弟たちに任せることだった。1900年、通訳として売り場に立った万博から22年後、林は千年を超える日本の美術を見せる「日本古美術展」を開いた。
万博のあと、林は店じまいにかかる。1902年1月、店を任せていた弟が世を去ると、林は店を閉め、在庫を競売にかけた。鑑定人のビングは、目録の序に書いている。林は最も慈しんだ品を、どれほどまばゆい申し出からも守ってきた。だが事務官長として公の務めに身を置くいま、集めた品をすべて競りにかけると決め、何より心にかけてきた品まで手放すのだ、と。閉じた扉の奥の品が、ついに競りに出た。
ケクランによれば、林は老後を日本で過ごすつもりだった。一枚ずつ集めたフランスの絵に囲まれて暮らし、死後は絵を東京の美術館に託す。1905年、林は東京へ帰った。
まもなくパリの友人たちに届いた手紙は、林の体がすぐれないことを伝え、見違えるほどの肖像写真が添えてあった。それでも林は愚痴を言わず、笑みを含んだ達観で書いていたという。1906年4月、林は東京で世を去った。
夢は実らなかった。帝室博物館が絵を買い上げるという望みは、資金が無く果たせなかった。湿った日本の気候が画布を傷めるおそれもあり、遺族は絵を西洋に返すことにした。1913年、ニューヨークで開かれた売り立ての目録には、ドガ11点、モネ2点、カサット3点などが並ぶ。ケクランはその目録に寄せた文に、絵は日本の画家の手本になることなく、海の向こうの遠い国々に散る、と書いた。
地方の町の道具屋を「すっかりすくい取る」と話し、15万枚を超える版画を日本から送らせた林は、浮世絵を大量に国外へ流出させた人物として、ときに批判的に語られてきた。一方、2019年には国立西洋美術館が「林忠正―ジャポニスムを支えたパリの美術商」展を開いている。
自分を「ただの、わが国の美術品の商人」と書いた一文は、「もっとも、目利きでもあるが」と続いていた。その目は、西洋の美術にも向いていた。ケクランは、林とルーヴルを歩いた日のことを書き残している。ジャン=アントワーヌ・ヴァトーが赤チョークで描いた素描の前で、林は立ち止まった。そして、皮肉と深い確信のこもった笑みで言った。
こんな人を持っているのに、歌麿に何を求めるのですか。
出典
- Tadamasa Hayashi「Le Japon」『Paris Illustré』第45・46号、1886年5月1日(ゲッティ研究所の所蔵本の画像)
- 高岡市立博物館「林忠正編著『パリ・イリュストレ』日本特集号」「『パリ・イリュストレ』全16号合本」「明治31年11月6日付 西園寺公望書簡(林忠正三兄弟宛)」「林忠正著『高岡銅器維持ノ意見』」(文化遺産オンライン)
- 黒田清輝 父宛の手紙、1886年2月10日(東京文化財研究所「黒田清輝日記」)
- Camille Pissarro『Letters to His Son Lucien』John Rewald 編、Pantheon Books、1943年
- 国立国会図書館「1867年第2回パリ万博」(電子展示会『博覧会―近代技術の展示場』)
- 深港恭子「1867年パリ万博における薩摩藩とその出品物について」鹿児島県歴史・美術センター黎明館
- 『Le Japonisme』展覧会図録、Réunion des musées nationaux、1988年
- Ernest Chesneau「Le Japon à Paris」『Gazette des Beaux-Arts』第2期第18巻、1878年
- Philippe Burty「Japonisme」『La Renaissance littéraire et artistique』第1年第4号、1872年5月18日
- Jules Claretie『Peintres et sculpteurs contemporains』Charpentier、1873年
- 『Journal des Goncourt』(シャルパンティエ版)の1887年5月20日・1888年5月13日・1891年12月5日・1892年4月30日・1895年7月28日の記事(OBVIL の電子版の第7巻・第8巻・第9巻、Wikisource の翻刻)
- Edmond de Goncourt『Outamaro: le peintre des maisons vertes』Bibliothèque-Charpentier、1891年
- 『世界大百科事典』(旧版)「フランス」の項の林忠正についての記述(コトバンク「林忠正」)
- 佐藤洋子「林忠正コレクションとパウラ・モーダーゾーン=ベッカー」『早稲田大学日本語研究教育センター紀要』16号、2003年
- Michel Maucuer「HAYASHI Tadamasa」、INHA『Collectionneurs, collecteurs et marchands d'art asiatique en France 1700-1939』(AGORHA)、2022年
- Gabriel P. Weisberg「BING Siegfried」、同、2022年
- Auréanne Bergère「KOECHLIN Raymond」、同、2022年
- Fondation Custodia「Hayashi, Tadamasa」『Les Marques de collections de dessins & d'estampes』L.2971
- American Art Association『Catalogue of the Important Collection of Paintings, Water Colors, Pastels, Drawings and Prints Collected by the Japanese Connoisseur the Late Tadamasa Hayashi』1913年(レイモン・ケクラン「Hayashi's Collection of French Pictures」、ラファエル・コラン「Tadamasa Hayashi: Some Recollections」、エルンスト・グロッセの序を含む)
- 『Collection Hayashi. Objets d'art du Japon et de la Chine, peintures, livres』1902年(S・ビングの序「Collection Hayashi」)
- アムステルダム国立美術館 RP-P-1956-642(鳥居清長《四代目岩井半四郎》)の記録
- ファン・ゴッホ美術館「Why Did Van Gogh Collect Japanese Prints?」「Print Series One Hundred Famous Views of Edo」「Enchanted by Japan」
- ファン・ゴッホ美術館 作品記録(花魁(英泉による)・花咲く梅の木(広重による)・雨中の橋(広重による)・広重〈亀戸梅屋舗〉のトレース素描)
- Martin Bailey「Van Gogh's love of Hiroshige, the Japanese master of the landscape, is reflected in a British Museum exhibition」『The Art Newspaper』、2025年
- ファン・ゴッホ美術館、ホイヘンス研究所『Vincent van Gogh – The Letters』書簡567・640・686
- Berthe Morisot『The Correspondence with Her Family and Friends』Denis Rouart 編、英訳、1987年版
- シカゴ美術館 喜多川歌麿《青楼十二時 続 巳ノ刻》・メアリー・カサット《Woman Bathing》の記録
- 国立西洋美術館「林忠正―ジャポニスムを支えたパリの美術商」展、2019年(同展の出品リストを含む)
注
- フランス語と英語の文の和訳は、この記事のための訳。ピサロの手紙は英訳から、1913年のケクランの文は目録の英文から訳した。
- 1890〜1901年に送らせた版画は、『世界大百科事典』が15万6487枚、INHA の事典が約16万6000枚(218回の発送)とする。絵本の9708冊はどちらも同じ。
- 林が自分の名の店を開いた年を、1883年とする記述もある。
- ケクランの「日本とパリのあいだの最も聡明な仲立ち」は1906年の記事の言葉で、リュフトの事典が引く。
- 6枚目という言い方は『歌麿』による。日記は《十二時》の一枚と書く。
- ゴッホがビングから買った版画を、ファン・ゴッホ美術館は660点、ベイリーは600点を超えるとする。屋根裏の版画は、同館が何千枚、ゴッホの手紙が1万枚と書く。
- 1867年のパリ万博の日本の展示と、パリの日本趣味は、読みもの「着物姿の妻を描いたモネ――《ラ・ジャポネーズ》とパリの日本趣味」で扱っている。
- 図版は、ブルックリン美術館(《鮑取り(中)》)、アムステルダム国立美術館(《四代目岩井半四郎》《亀戸梅屋舗》)、シカゴ美術館(《青楼十二時 続 巳ノ刻》)、ファン・ゴッホ美術館(《広重〈亀戸梅屋舗〉のトレース素描(花咲く梅の木)》《花咲く梅の木(広重による)》《雨中の橋(広重による)》《花魁(英泉による)》)、米国議会図書館(《大はしあたけの夕立》)、メトロポリタン美術館(《沐浴する女》)の所蔵品の画像による。
Images
- 喜多川歌麿《Abalone Divers (middle)》 — Public domain / ブルックリン美術館(Gift of Frederic B. Pratt、42.90)Source
- 鳥居清長《Actor Iwai Hanshiro IV in Daily Life》 — Public domain / アムステルダム国立美術館(Purchased with the support of the Vereniging Rembrandt and the Ministerie van Onderwijs, Kunsten en Wetenschappen、RP-P-1956-642)Source
- 喜多川歌麿《Hour of the Snake (Mi no koku), from the series "Twelve Hours in Yoshiwara (Seiro juni toki tsuzuki)"》 — CC0 / シカゴ美術館(Clarence Buckingham Collection、1925.3055)Source
- 歌川広重《名所江戸百景 亀戸梅屋舗》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
- フィンセント・ファン・ゴッホ《Tracing of 'The Plum Tree Teahouse at Kameido' of Hiroshige》 — Public domain / ファン・ゴッホ美術館(Vincent van Gogh Foundation、d0772V1962)Source
- フィンセント・ファン・ゴッホ《Flowering Plum Orchard (after Hiroshige)》 — Public domain / ファン・ゴッホ美術館(Vincent van Gogh Foundation、s0115V1962)Source
- 歌川広重《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
- フィンセント・ファン・ゴッホ《Bridge in the Rain (after Hiroshige)》 — Public domain / ファン・ゴッホ美術館(Vincent van Gogh Foundation、s0114V1962)Source
- フィンセント・ファン・ゴッホ《Courtesan (after Eisen)》 — Public domain / ファン・ゴッホ美術館(Vincent van Gogh Foundation、s0116V1962)Source
- メアリー・カサット《Woman Bathing (La Toilette)》 — CC0 / メトロポリタン美術館(Gift of Paul J. Sachs, 1916、16.2.2)Source
この記事に出てくる作家

クロード・モネ
Claude Monet
1840–1926

エドガー・ドガ
Edgar Degas
1834–1917

黒田清輝
Kuroda Seiki
1866–1924
山本芳翠
Yamamoto Hosui
1850–1906

カミーユ・ピサロ
Camille Pissarro
1830–1903

葛飾北斎
Katsushika Hokusai
1760–1849

喜多川歌麿
Kitagawa Utamaro
1753?–1806

鳥居清長
Torii Kiyonaga
1752–1815

歌川広重
Utagawa Hiroshige
1797–1858

菱川師宣
Hishikawa Moronobu
1618?–1694

フィンセント・ファン・ゴッホ
Vincent van Gogh
1853–1890

渓斎英泉
Keisai Eisen
1790–1848

メアリー・カサット
Mary Cassatt
1844–1926

ジャン=アントワーヌ・ヴァトー
Jean-Antoine Watteau
1684–1721
