
月岡雪鼎
蔵に月岡雪鼎の春画があれば火事にならない。1760年代半ばごろから、そんな噂まで立った絵師である。江戸時代中期に大坂で活躍し、ふくよかな美人を描く肉筆画と春画で名を上げた。
近江に生まれ、本姓は木田、名は昌信、通称を丹下といった。初めは同じ近江出身の狩野派の画家、高田敬輔に学んだ。のちに大坂に住み、京都の浮世絵師・西川祐信らの影響を受けて風俗画に転じる。研究者のアンドリュー・ガーストルは、雪鼎の描く体は同時代の江戸の鈴木春信らとは根本から違い、肉感と写実味に富むと見る。
宝暦から明和にかけて(1751〜71年)、雪鼎は艶本を含むおよそ40点の本に挿絵を描いた。雪鼎の作とされる「女大楽宝開」は、女性向け教訓書「女大学宝箱」の大きさや字体、絵までそっくりに真似ている。夫や舅・姑に従うよう説く元の本に対し、こちらは夫婦が仲むつまじく暮らす知恵を笑いとともに説いた。
春画の評判は江戸にも届いた。「浮世絵類考」には、山東京伝の「春絵の名人、又印刻の画本多し。」という評や、渓斎英泉が「丹下(雪鼎)彩色の春画大巻物」を見て「妙手なり」と評した言葉が載る。肉筆の巻物には、火除けの「厭火」の文を冒頭に付けたものもある。
一方、雪鼎は明和2年(1765年)に法橋、安永7年(1778年)に法眼の位を得て、上方の上流の人々から肉筆画の注文を受けた。
鶉の絵を頼まれて断った話も伝わる。鶉では光起に及ばないと思い、10年たてば追いつけるかと考えたが、10年後にもまだ及ばない、というのが理由だった。光起は、鶉を好んで描いた土佐光起を指すと読める。
画風は長男の雪斎(養子とも伝わる)と次男の雪渓が継いだ。門人には蔀関月、岡田玉山、墨江武禅らがおり、関月に学んだ流光斎如圭はのちに大坂の役者絵を始める。ガーストルは雪鼎の体の描き方が流光斎に大きな影響を与えたと考える。二人とも、体を描くときはまず裸を描き、そのあと着物を描くと書き残した。
雪鼎の生年には宝永7年(1710年)説と享保11年(1726年)説がある。フリーア美術館の三都の遊女(京・大坂・江戸)には、法眼の位とともに「時年六十七」と、描いたときの年齢が記されている。だが、どちらの生年に当てはめても、この年齢は法眼の位や没年と合わない。没したのは天明6年12月4日(1787年1月22日)で、享年は77歳とも72歳とも伝わる。
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