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寺崎広業

寺崎広業

てらさき こうぎょうTerasaki Kogyo
8 Artworks

絶筆となった《ヒマラヤ図》(1919)を描いていたとき、寺崎広業はすでに死病の床にあった。異父弟が耳鼻咽喉科医として最期の脈を取り、葬儀には三千人が会葬したという。慶応2年(1866)に秋田で生まれ、大正8年(1919)に五十二で世を去るまで、この画家は山水・歴史・人物・美人画・花鳥のいずれにも筆を届かせ、明治から大正にかけての日本画壇に太い一本の柱を立てた。

画歴の出発点は郷里にある。十六で秋田藩御用絵師にして狩野派の小室怡々斎の門をたたき、粉本を写して腕を仕込んだ。やがて上京、同郷の平福穂庵、次いで南画の菅原白龍のもとで筆を鍛える。若い頃は各地を転々として糊口をしのいだ時期もあり、その放浪が画域の広さの下地になった。中国古典に取材した歴史画から、四季の山河を叙情的にとらえる山水まで、主題を選ばず往還できるのがこの人の身の軽さである。

明治31年(1898)に東京美術学校助教授となるが翌年これを辞し、岡倉天心や橋本雅邦が旗を掲げた日本美術院の創立に身を投じた。ほどなく明治34年(1901)には同校教授として迎え直され、号を天籟散人と改める。大正2年(1913)に日本画科主任、明治40年(1907)の第1回文展以来審査の任にあたり、大正6年(1917)には帝室技芸員に列した。

代表作を追うと画風の幅が見える。第1回文展の《大仏開眼》(1907)は東大寺の開眼供養を大画面に組み立てた歴史画で、群像を破綻なくまとめる構成力がうかがえる。《瀟湘八景》(1912)や高山清秋(1914)、《信濃の山路》(1915)では、輪郭に頼らず墨と淡彩の階調で空気そのものを描こうとした。初期の《墨堤之雪》(1893)、秋苑(1899)もあわせて、装飾と叙情のあいだを自在に行き来する。

教育者としての存在も大きい。天籟画塾を構え、門下は約三百人を数えたと伝わる。そこからは野田九浦、中村岳陵をはじめ、後の画壇を担う画家が数多く巣立っていった。作品は秋田県立近代美術館、千秋美術館、東京国立博物館、東京国立近代美術館などに収まっている。

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