
住吉如慶
平安時代の宮廷の行事を描いた《年中行事絵巻》は、江戸時代の初めに内裏の火事で焼けた。その姿を今に伝える模本を写した一人が、住吉如慶である。江戸時代前期のやまと絵の画家で、天皇の命で「住吉」を名のり、住吉派の祖となった。
慶長4年(1599年)、和泉国の堺に生まれた。名は広通、通称は内記という。土佐派の絵師、土佐光吉の子とも、光吉とその子・光則に学んだ弟子ともいわれる。幼いころ堺で二人から絵を学び、のちに京都へ移った。
寛永2年(1625年)には、天海僧正の推挙で、徳川家康の伝記を描く《東照宮縁起絵巻》のため江戸へ下ったという。紀州東照宮に伝わる5巻のうち、関ヶ原の戦いを描いた第二巻は如慶の筆と分かっていて、正保3年(1646年)の作である。幕府の御用も勤め、関東にやまと絵を広める端緒をつくった。承応3年(1654年)からは、土佐派の土佐光起とともに内裏の障壁画を描いた。
寛文元年(1661年)に剃髪して如慶と号し、法橋の位を得た。翌寛文2年(1662年)、後西天皇の勅命で住吉を名のる。鎌倉時代中期の絵師、住吉慶忍(慶恩とも)の絶えていた画系を復興するためだった。これが住吉派の始まりである。
代表作によく挙がる《堀河夜討絵巻》は、源義経の宿所を夜討ちした土佐坊昌俊が、かえって捕らえられるまでを2巻に描く。昭和10年(1935年)の「帝室博物館案内」は、その画風を「精密にして典雅」と評した。《伊勢物語絵巻》も代表作とされ、将軍徳川家綱の正室の遺品として津軽家に伝わった。《瀟湘八景図巻》では中国の風景8図を水墨で描き、やまと絵の画派による水墨画の貴重な例を残した。晩年には「伊勢物語」を小さな画帖にも描き、現存する9図の一つ伊勢物語 東下り・宇津の山は大英博物館にある。
明治の図録「真美大観」によれば、土佐家の光起さえ狩野派に近づくなかで、古い土佐派の風格を取り戻そうとしたのは如慶と子の具慶だけだった。二人は昔の面目をよく保ち、ついには人に「古土佐の風格反つて住吉家に傳はれり」と言わせたという。一方、「改訂新版 世界大百科事典」は、住吉派の画風はしだいに型にはまっていったと見る。
寛文10年(1670年)に没した。如慶の長男、住吉具慶は天和3年(1683年)に江戸へ召し出され、貞享2年(1685年)に幕府の奥絵師となった。次男は出家して鶴洲と号した。
Own a work by Sumiyoshi Jokei?
List it for sale on Cugira.





