
新海竹太郎
新海竹太郎は近衛騎兵の兵士だったころ、7センチほどの馬を彫って獣医官を感心させた。騎馬像と《ゆあみ》で知られる彫刻家の仕事は、この小さな馬から始まった。
慶応4年(1868年)、山形の十日町で代々の仏師の家に生まれた。少年期に仏像彫刻を学んだが、陸軍士官を志して上京した。明治21年(1888年)に士官候補生の試験に落ち、徴兵で近衛騎兵大隊に入った。木で彫った馬が隊内で評判になり、同郷の大隊長から、馬の彫刻で知られる後藤貞行を紹介された。除隊後は後藤の助手となった。楠木正成像の制作では、甲冑をつけて岡倉天心の愛馬に乗り、楠公のポーズをとった。
日清戦争では、師団長の北白川宮能久親王の下で台湾に渡った。明治29年(1896年)、亡くなった親王の騎馬像を任された。雛形は競技会で銀賞を得たものの、雑誌「美術評論」には馬と人の比例が悪いと酷評された。
明治33年(1900年)、パリ万国博覧会を機にパリへ渡った。オーギュスト・ロダンの作品を初めは「変な彫刻」と思ったが、のちに、変だと思ったところにこそ価値があったと振り返っている。ベルリンでは美術学校の教授エルンスト・ヘルテルに師事し、その工房で学んだ。月謝の代わりに、日本から「暁斎画談」や花鳥画譜を取り寄せて師に贈ったという。
明治35年(1902年)に帰国し、太平洋画会の彫刻部を主宰した。研究所では堀進二・戸張孤雁・中原悌二郎らを育てた。手直しした北白川宮能久親王の騎馬像は、明治36年(1903年)に除幕された。竹太郎は「彫刻家として今日あるは全くこの銅像のお蔭である」と語っている。
明治40年(1907年)の第1回文展では彫塑の審査委員を務め、《ゆあみ》を出品した。政府に買い上げられたこの女性像は代表作となり、石膏原型は2000年に国の重要文化財に指定された。騎馬像だけでなく、義太夫を聴かせる男や荷車を引く夫婦など、同時代の人々も像にした。明治45年(1912年)、竹太郎はこれを「浮世彫刻」と呼んだ。
夏目漱石と森鷗外のデスマスクも、竹太郎が取った。漱石の型を取り終えたのは、亡くなった大正5年(1916年)12月9日の深夜だった。
大正6年(1917年)に帝室技芸員、大正8年(1919年)に帝国美術院の会員となった。大正10年(1921年)には中国の雲崗石窟を訪ね、写真集「雲崗石窟」の図版200枚を選んだ。晩年は東洋の芸術に傾き、大正15年(1926年)に《老子》を作った。昭和2年(1927年)3月12日に没した。
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