
ピエト・モンドリアン
ニューヨークに着いた最初の晩、ピエト・モンドリアンはブギウギを知り、たちまち夢中になった。水平・垂直の線と三原色、白・黒・灰だけで画面を組む「新造形主義」を唱えたオランダの画家は、68歳で渡ったこの街でも描き方を変え続けた。
1872年、オランダのアメルスフォールトに生まれた。小学校の校長で絵をたしなむ父と、ハーグ派の風景画家だった叔父に絵を習った。図画教師の資格を取り、1892年にアムステルダムの国立美術アカデミーへ入る。初めは風車や農家、近郊の川辺を描いていた。
色づかいは、パリへ移る前から変わり始めていた。1907年の赤い雲では、それまでの沈んだ夕景に代わり、強い色の対比と素早い筆づかいが現れる。翌年、オランダのルミニスムを率いた画家ヤン・トーロップと知り合い、色を原色に絞った。1909年には、精神と物質が一つになった調和の宇宙を信じる神智学協会に入っている。
1911年秋、アムステルダムの展覧会で、初めてパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックのキュビスムを見た。そのすぐあと、まだオランダにいるうちに灰色の木を描く。風景画家として評判を得ていたが、1912年1月、40歳を目前にパリへ移った。署名の綴りも「Mondriaan」から「Mondrian」に改めた。
1914年、病気の父を見舞いに帰国したところで第一次世界大戦が始まり、オランダに4年半とどまる。その間の1917年、画家・建築家・批評家のテオ・ファン・ドゥースブルフらと雑誌「デ・ステイル」を創刊した。
1919年6月にパリへ戻り、誌上で連載した理論を翌年「新造形主義」として本にまとめた。直線と色面を非対称に置いて均衡をつくる「コンポジション」の型は1921年に定まり、その原理は建築やデザインにも及んだ。ただ、斜めの線を加えようとするファン・ドゥースブルフとは対立し、1925年にデ・ステイルを離れている。
1938年に戦争の脅威を避けてロンドンへ、1940年にはニューヨークへ渡った。黒い線を色の線に置き換え、ブロードウェイ・ブギウギでは小さな色の四角を連ねて線をつくる。最後のヴィクトリー・ブギウギも組み替えを重ね、1944年1月23日の晩には、病気をおして大きな描き直しを始めた。2月1日、肺炎のため71歳で世を去り、絵は未完のままアトリエに残った。
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