
ポール・ゴーギャン
ゴーギャンは年に3万フランを稼ぐ株式仲買人だったが、35歳で勤めを辞めた。後期印象派を代表するフランスの画家で、タヒチでわれわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのかを描いた。「ゴーガン」とも書く。
パリに生まれ、幼年期をペルーのリマで、青年期を船の上で過ごした。株式仲買の仕事のかたわら絵を描き、カミーユ・ピサロに学んだ。1881年の印象派展では、裸婦習作を批評家ユイスマンスが絶賛した。
1882年の株価暴落を機に、2年かけて絵で暮らす計画を固めた。1883年に勤めを辞め、一家で妻の故郷コペンハーゲンへ移ったが、1885年、妻子を残してパリへ戻った。
1888年、ブルターニュのポン=タヴァンで説教のあとの幻影を描き、総合主義を打ち立てた。同年10月23日から、南フランスのアルルでフィンセント・ファン・ゴッホと9週間暮らした。
12月にゴーギャンが仕上げたひまわりを描くゴッホを見て、ゴッホは「確かにぼくだ。でも、気が狂ったぼくだ」と言ったと、ゴーギャンは回想している。12月23日の夜、ゴッホは自分の耳を切った。二人は二度と会わなかった。
1891年、ヨーロッパの文明から逃れると言ってタヒチへ渡った。だが、首都パペーテにはすでにフランスとヨーロッパの文化が入りこんでいた。タヒチの人を描いた最初の肖像と考えられる花を持つ女(ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ)や、イア・オラナ・マリアは、この滞在で描いた。
紀行「ノア・ノア」には、13歳の少女テハマナを現地の妻にしたと本人が書いている。今日では、少女たちへの性的搾取を批判する声もある。
1895年、ふたたびタヒチへ渡った。1897年に娘アリーヌの死を知らされ、借金と病に苦しむなか、暮れに冒頭の大作を描き終えた。そのあと山に入り、ヒ素を飲んで自殺を図った。
1901年にはマルキーズ諸島のヒバオア島へ移った。画商ヴォラールとの契約で暮らしにゆとりはあったが、司教や憲兵と争い、脚の痛みにモルヒネとアヘンチンキで耐えた。
1903年5月8日の朝、54歳で急逝した。死因ははっきりしない。その朝に呼ばれた牧師ヴェルニエは心臓発作と考えたが、枕元のアヘンチンキの空き瓶から、飲みすぎも疑われた。
死後、パリの回顧展はパブロ・ピカソらに強い影響を与えた。その自在な色彩は、ナビ派やフォーヴィスムの画家たちにも影響した。
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