
勝川春亭
勝川春亭は、三枚の版画を横につないだ大きな画面に、武者の戦いを描いた江戸後期の浮世絵師である。本の挿絵も数多く手がけたが、仕事の順番をめぐって戯作者に3年間絶交されたこともある。
師は勝川春英。同門の勝川春扇と並び、春英門下の双璧とされる。役者絵や美人画も描いたが、仕事の量では、読本や合巻などの挿絵が錦絵をはるかに上回った。戯作者の式亭三馬も挿絵を頼んだ一人である。ところが、春亭が山東京伝の本を先に仕上げたため、三馬の本の発売が遅れてしまった。三馬の日記「式亭雑記」によれば、腹を立てた三馬は春亭と3年間絶交し、文化8年(1811年)4月に義理で仲直りした。
武者絵を描く仕事には、処罰の危険もあった。文化元年(1804年)、人気の読本「絵本太閤記」に取材した錦絵をめぐり、絵師らが処罰された。「街談文々集要」は、春亭も手鎖五十日の処分を受けたと記す。同年には、天正以降の武者を名前だけでなく、紋所などでそれと分かるように描くことも禁じる触れが出ている。
それでも、春亭の錦絵で最も多いのは武者絵である。春亭を研究した岩切友里子によれば、文化2年(1805年)以降、春亭は武者絵の三枚続を数多く描き、この形式を定着させた。鈴木仁一は、昭和46年(1971年)の著書『末期浮世絵師』で、春亭を「武者戦争画の創始者」と呼んでいる。
春亭は、横につながる画面を巨大な物体で貫く構図も試みた。岩切は、この手法が、のちに歌川国芳が描いた横長の武者絵への道を開いたのではないかと見る。国芳が初め春亭に学んだという説も残るが、師弟関係は確かではない。岩切は、国芳に先立って「武者絵の春亭」という評価があったと考えている。しかし、昭和初期の「浮世絵大成」には、春亭の武者絵が一点も載らなかった。
数は少ないが、洋風の風景画も残している。版画家の織田一磨は、大正15年(1926年)の「浮世絵十八考」で、春亭の風景画を繊細な三弦楽になぞらえ、高く評価した。
文化10年(1813年)頃からは、狂歌の仲間が自作の歌を添えて配り合う摺物の絵も描いた。七福神を女性に見立てた「花笠連七婦久人」もその一つで、一般に売るための絵ではなかった。生年は不明。勝川家に伝わる過去帳から、文政7年(1824年)に没したとされる。
Own a work by Katsukawa Shuntei?
List it for sale on Cugira.











