
ジャン=フランソワ・ミレー
ジャン=フランソワ・ミレーは、草刈りや脱穀、種まきなど、のちに絵に描く畑仕事を、ノルマンディーの農家の長男として自分の手でしてきた。落穂拾い晩鐘種まく人で知られ、バルビゾンで働く農民を描いた、バルビゾン派を代表する画家の一人である。
1837年、奨学金を得てパリへ出て、ポール・ドラローシュのアトリエに入ったが、授業にはなじめなかった。1840年代は肖像画や、柔らかな色で描く裸婦で生計を立てた。伝記作者サンシエによれば、画商の店先で、裸の女しか描かない男だと噂されるのを耳にし、もうああいう絵は描かないと妻に告げたという。
1848年のサロンでは箕をふるう人が好評を得た。内務大臣ルドリュ=ロランは、この絵を500フランで買い上げた。翌年、ミレーはパリの暴動とコレラを避け、家族とバルビゾン村に移った。フォンテーヌブローの森に接するこの村で、残りの生涯を過ごすことになる。
親友の風景画家テオドール・ルソーは、ミレーをひそかに助けたことがある。1855年、《接ぎ木をする農夫》にアメリカ人の買い手が見つかったと言って、4000フランを渡した。実際の買い手はルソー自身だった。
農民を描いた絵は、政治的な主張とも受け取られた。種まく人を保守派は非難し、左派は民衆の姿として持ち上げた。1857年の落穂拾いも、保守派の批評家に皮肉られた。3人の農婦が、まるで貧しさをつかさどる神話の三女神のように気取っている、というのである。ミレーは1867年の手紙で、何かの主張の弁護人になるつもりはない、額に汗してパンを得る人のことを考えてほしかっただけだと書いている。
生前から評価は高まっていた。1853年に刈入れ人たちの休息(ルツとボアズ)などで二等のメダルを得て、1864年には羊飼いの少女もメダルを受けた。1867年のパリ万国博覧会には落穂拾い晩鐘など9点を並べ、翌年、レジオン・ドヌール勲章を受けた。
晩年は四季の連作の春など、風景画に力を注いだ。1875年1月20日、バルビゾンで没した。
没後の1889年、晩鐘は競売で55万3000フランまで競り上がった。フィンセント・ファン・ゴッホはミレーを深く敬い、療養院で版画をもとに20点の油彩の写しを描いた。日本では、岩波書店のマークがミレーの種まきの絵を借りたものだ。
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