
カミーユ・クローデル
粘土をつかむ手が早熟だった。北フランスの村で育った少女は十代にしてすでに、教師のポール・デュボワが「ロダンの弟子だったのか」と本気で疑うほどの塑像感覚を持っていた。パリに出て私塾で学び、十九歳の頃には彫刻家 オーギュスト・ロダン のアトリエに入る。助手として《地獄の門》の群像に手を加え、ロダン作とされる幾つかの手や足は実際には彼女の仕事だったとも言われる。だが彼女はただの助手ではなかった。師弟であり、恋人であり、同時に対等な造形の探究者だった。
代表作ワルツ(La Valse)は、抱き合う男女がまだ足を離せずにいるような、動きの途中の一瞬をブロンズに閉じ込めている。ロダンの重厚な量感とは違う、しなやかで速度のある線。分別盛り(L'Âge mûr)になると、その筆致は自伝に近づく。老いた男を年配の女がさらい、若い女が跪いて引き止めようとする三人の群像は、ロダンとその内縁の妻ローズ・ブーレ、そして自分自身の姿だと誰の目にも読めた。関係は十五年続き、そして壊れた。彼女はロダンの名声の陰から抜け出そうと、より小さく、より親密な作品――おしゃべりな女たち(Les Causeuses)のような、オニキスと大理石を組み合わせた室内群像――へと向かっていく。
しかし才能だけでは足りなかった。ロダンとの決別後、彼女は孤立し、経済的にも困窮し、被害妄想的な症状が強まっていく。制作した作品を自ら壊すことも重なった。1913年、父の死の直後、家族――とりわけ弟で詩人・劇作家の ポール・クローデル ――の手配により精神病院に入れられる。医師たちが退院可能と診断した後も、母と弟はそれを望まなかった。以後三十年、彼女はモンドヴェルグの療養院で過ごし、一度もアトリエに戻ることなく1943年に世を去った。晩年の手紙には、彫刻家としての自分を取り戻したいという願いが繰り返し綴られている。
死後長らく「ロダンの影の女」として片付けられてきたが、20世紀末以降の再評価によって、彼女自身の造形言語――躍動する量感と親密な人間観察――が独立した価値として見直されている。パリのロダン美術館、そして2017年に開館したノジャン=シュル=セーヌのカミーユ・クローデル美術館に、その仕事の核心を見ることができる。
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