モデルは妻のカミーユ

フランスの画家クロード・モネは、1876年、妻のカミーユ・モネに日本の衣装を着せて《ラ・ジャポネーズ》を描いた。いまはボストン美術館にある。人物をほぼ実物大に描いた大作で、高さは231.8センチある。

クロード・モネ
ラ・ジャポネーズ
1876 油彩・カンヴァス 231.8 × 142.3 cm

現在の題「ラ・ジャポネーズ」は、フランス語で「日本の女」を意味する。ただしモデルのカミーユは日本人ではなく、髪も本来は褐色だった。この絵のために金髪のかつらをかぶっている。

ボストン美術館の所蔵品ガイドには、このかつらは西洋の女性であることを強めるためのものだとある。いまの作品解説は、モネの意図は分からないとしている。

日本の衣装を着せて、パリの女性を描く。その取り合わせに、この絵の芯がある。

日本から届いたもの

1850年代に日本が西洋との交易を始めると、日本からの輸入品がヨーロッパへ押し寄せた。その先頭にあったのが浮世絵の版画である。扇や着物、漆器、絹も、船でイギリスやフランスに入り始めていた。

日本とフランスは1858年に修好通商条約を結ぶ。1867年のパリ万国博覧会には日本が館を出し、パリの人々は日本の美術工芸の正式な展示を初めて見た。

浮世絵は、遊女や歌舞伎役者、名所などを描いた色刷りの木版画で、数多く作られた。版画なので、同じ図柄を何枚も刷って売れた。

日本の文化への賛美と取り込みが入り混じったこの動きを、ジャポニスム(日本趣味)という。着物を着せたモデルを描く画家もいれば、日本の美術から縦長の画面や左右を釣り合わせない構図を取り入れる画家もいた。

エドモン・ド・ゴンクールは小説家で、日本美術の収集家でもあった。1875年3月31日の日記には、パリのリヴォリ通りにある、日本の品物を売る店のことが書かれている。はじめの客は、自分と亡き弟のような数人の変わり者だった。やがて印象派の画家たちが、そして芸術家肌を気取る社交界の人々が来るようになったという。

ゴンクールはこの店を、いま絵画から流行にまで広がる日本の大きな運動が形づくられた、いわば学校と呼んだ。

ロンドンでも、扇や絹、漆の箱がリバティ商会などの店で売られて大いに流行し、ヨーロッパの装飾の様式にも影響した。リバティ商会は着物も扱い、着物を着る流行を育てた。

サロンは、アカデミーの画家たちが審査して作品を選ぶ、国の公式の展覧会である。ボストン美術館の修復の解説には、1870年代半ばには、日本の衣装を着たヨーロッパのモデルを描いたなまめかしい絵がサロンの定番になっていて、この絵にもその流行への意識がうかがえる、とある。

衣装の武者は何者か

カミーユの衣装は、打掛である。着物の上から羽織る上着で、今は婚礼衣装に使われ、遊女の打掛は歌舞伎の衣装に残っている。

モネ《ラ・ジャポネーズ》部分。打掛に刺繍された武者。ボストン美術館所蔵。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
モネ《ラ・ジャポネーズ》部分。打掛に刺繍された武者。ボストン美術館所蔵。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

日本美術を研究する横山昭は、2012年の研究ノートで、打掛に散らされた紅葉と武者の取り合わせから、図柄の題材を謡曲《紅葉狩》に求めた。謡曲は、歌と舞で物語を演じる日本の舞台芸術、能の脚本である。

《紅葉狩》では、鹿狩りの途中の平維茂が、紅葉狩りの宴を開く女たちに誘われ、酔って眠ってしまう。夢に現れた神が、女は鬼神だと告げる。目覚めた維茂に鬼女が襲いかかり、維茂はこれを討つ。衣装の武者をこの物語の人物とすれば、刺繍の図柄は鬼に立ち向かう場面になる。

もっとも横山は、この打掛を能の衣装とはとても考えられないとしている。大都市の大歌舞伎の興行に使う衣装でもないとし、地方の素人芝居の衣装か、花魁が着た衣装だった可能性を挙げた。どちらかに絞る結論は出していない。

ボストン美術館の修復の解説には、モネは日本の舞台衣装を数点持っていて、カミーユはそのうちの1点を着たらしいとある。どう手に入れたかは、借りたとも買ったとも言われ、はっきりしない。

モネが《紅葉狩》の筋を知っていたかは確認できない。

団扇も、絵を運ぶ紙だった

江戸時代、夏には祭りや夕涼みの場で安い刷り物の団扇が売られ、数時間から数日使って捨てられた。団扇は、刷った絵を竹の骨に平らに貼って作る。団扇に貼るための浮世絵は団扇絵と呼ばれ、江戸っ子に人気があった。

《ラ・ジャポネーズ》の壁と床には、紙の団扇が16本並ぶ。ボストン美術館の作品解説では、この画面は、日本風の飾りを大げさなほど並べた場とされている。

モネ《ラ・ジャポネーズ》部分。手の扇と、壁の団扇。ボストン美術館所蔵。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
モネ《ラ・ジャポネーズ》部分。手の扇と、壁の団扇。ボストン美術館所蔵。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

一方、カミーユが手に持つ扇は、フランス国旗の赤・白・青で彩られている。1876年の新聞『レヴェヌマン』の評にも、手に三色の扇を持つのは「フランスにとって名誉なこと」とある。

1876年、独立した画家たちの会場へ

モネはこの絵を、1876年の第2回印象派展に《ジャポヌリ》の題で出した。印象派の画家たちは、サロンから独立して自分たちの展覧会を開いた。短く切れた筆触と混ぜない色で光の効果を強め、近代の生活を描いた。

第2回の会場はパリのデュラン=リュエル画廊を借りた3室で、19人が参加した。入場料はサロンと同じ1フランだった。1876年4月15日の新聞『ル・ソワール』には、出品作が豪華に、大金をかけて額装されているとある。

《ジャポヌリ》は、日本から来た、あるいは日本風の美術品や骨董を指す言葉で、しばしば見下した響きを帯びる。今の題が女性を指すのに対して、発表時の題が指していたのは品物のほうだった。

衣装に刺繍された刀を抜く武者は、カミーユの腰から下のあたりに来る。批評家の何人かは、カミーユの態度、とくにこの武者の位置を、わいせつだとした。1876年4月5日の『ガゼット・ド・フランス』の評では、描かれた女性が、頭が二つある赤い衣の「中国女」と呼ばれている。肩に女の頭が載り、衣の下のほうにもう一つ、怪物の頭があるという。

小説家で美術批評も書いたエミール・ゾラは、1876年6月にロシアの雑誌へ寄せた展覧会評で、モネについて、疑いなくこのグループの首領だと書いた。そして《ジャポヌリ》は色彩でも奇抜さでも目を引くと書き、すぐに風景画の話を続けている。

42年後に届いた、絵の写真

1918年、画商ポール・ロザンベールが《ラ・ジャポネーズ》を15万フランで買い、真贋を確かめるためにモネに写真を送った。モネは8月6日の返信に、この絵をもう何年も見ていないと書いている。

同じ月、画商のルネ・ギンペルが、モネが1883年から住んでいたジヴェルニーの家を訪ねた。ギンペルは、その日のモネの話を日記に残している。サロンに出した《緑衣の女性》が大成功し、その対になる作品を描くよう勧められたのだという。モデルはカミーユで、髪は褐色だったが、描くときは金髪のかつらをかぶせた。ただし、これは制作から42年後の回想である。

クロード・モネ
緑衣の女性
1866

同じ日、モネは、ロザンベールが手に入れたのは「がらくた」で、「気まぐれにすぎない」と言い切った。ところがそのあと写真を見せながら、画家としての誇らしさをのぞかせて「この布地を見てください」と言った。その秋の日記に、ギンペルは、モネから「ひどく凡庸な作品」だと聞いていたと書いている。

翌1919年の手紙には、モネ自身が「ラ・ジャポネーズは日本の女ではなく、日本の女に扮したパリの女だ」と書いている。絵はその後も持ち主を替え、1956年にボストン美術館の所蔵となった。

ジヴェルニーの家に残った浮世絵

モネが亡くなる1926年まで住んだジヴェルニーの家には、集めた浮世絵のコレクションが、ほぼまとまったまま残っている。いま壁に掛かっているのは、精巧な複製である。モネは日本を一度も訪れなかった。

ジュヌヴィエーヴ・エトケンらは、モネが集めた日本の版画の総目録を書いた。エトケンによれば、版画は食堂や青い客間、玄関ホール、階段にも掛かっていた。食事のときも、階段を上るときも、その絵が目に入る。

出典

  • ボストン美術館の作品記録と解説(「Conservation in Action: La Japonaise」、所蔵品ガイド)
  • Daniel Wildenstein, Claude Monet: Biographie et catalogue raisonné, 第1巻 1974年、第4巻 1985年
  • 横山昭「モネと日本趣味 その一側面 ―《ラ・ジャポネーズ》の衣裳から見えるもの―」『美術史論集』12号、2012年
  • Michelle Liu Carriger, "No 'Thing to Wear'", Theatre Research International 43巻2号、2018年
  • Virginia Spate, Gary Bromfield, Monet and Japan, オーストラリア国立美術館、2001年
  • フランス文化省「1876 – Deuxième exposition」
  • メトロポリタン美術館の解説(Colta Feller Ives「Japonisme」、Margaret Samu「Impressionism: Art and Modernity」ほか)
  • ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の解説と所蔵品の記録
  • 大英博物館のブログ(Alfred Haft)、2025年
  • 太田記念美術館「国芳の団扇絵」展の紹介
  • INHA AGORHA(ゴンクール兄弟とデゾワの店の項)
  • ジヴェルニーのモネの家の資料とジュヌヴィエーヴ・エトケンへのインタビュー
  • アカデミー・デ・ボザールの資料
  • TLFi「japonerie」
  • オルセー美術館とフランス国立図書館のゾラについての資料
  • René Gimpel, Journal d'un collectionneur marchand de tableaux, 1963年
  • Colin B. Bailey の論考、The New York Review of Books、2017年
  • 『ゴンクールの日記』第5巻
  • ゾラ「五月の二つの美術展」『ヨーロッパ通報』1876年6月号
  • Givernews
  • the能.com
  • 『山川 日本史小辞典』、文化遺産オンライン、『改訂新版 世界大百科事典』『デジタル大辞泉』『日本大百科全書』(コトバンク)

注

  • モネの言葉は、ルネ・ギンペルの日記の1918年8月19日と10月29日の記録と、1919年の手紙(ウィルデンシュタイン第1巻)から、1918年8月6日の手紙は Colin B. Bailey の論考が引く原文から引いた。
  • ゴンクールの言葉は『ゴンクールの日記』第5巻の1875年3月31日の記録による。
  • 1876年の新聞の評は、フランス文化省の資料と Carriger の論文、『Monet and Japan』、Givernews による評の転載による。
  • 《紅葉狩》の筋は the能.com と『世界大百科事典』による。
  • 図版は、ボストン美術館所蔵の《ラ・ジャポネーズ》と、ブレーメン美術館所蔵の《緑衣の女性》のパブリックドメインの画像による。部分図は《ラ・ジャポネーズ》の同じ画像から切り出した。

Images

  • クロード・モネ《ラ・ジャポネーズ》 — Public domain / Wikimedia Commons, Museum of Fine Arts, Boston, 1951 Purchase Fund (56.147)Source
  • クロード・モネ《緑衣の女性》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource

この記事に出てくる作家

クロード・モネ

Claude Monet

1840–1926