まず、この一枚を見てほしい。

水門の鉄格子を、男が素手でこじ開けている。刀は口にくわえたまま。矢が何本も飛んでくるのに、顔色ひとつ変えない。全身を覆う刺青は、模様の一つひとつまで摺り分けてある。

歌川国芳、30代の作である。

この絵のどこがすごいか、理屈をこねても仕方がない。見ればわかる。画面いっぱいに描いて、紙からはみ出す寸前で止める。色は濃く、線は太く、人物は力みかえっている。江戸っ子はこういう絵に熱狂した。

奇想の絵師

もっとも、国芳がこう呼ばれるようになったのは、そう古い話ではない。

美術史家の辻惟雄が雑誌『美術手帖』に「奇想の系譜・江戸のアヴァンギャルド」を連載したのが1968年。それをふくらませて1970年に一冊にしたのが『奇想の系譜』である。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、そして歌川国芳。辻はこの六人を「奇想」の一語でくくってみせた。因襲の殻を打ち破り、非日常の世界へ引きずり込む絵、という意味である。

それまで、この六人がまとめて紹介されたことはなかった。

2019年には東京都美術館で「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」が開かれ、白隠慧鶴と鈴木其一を加えた八人が並んだ。若冲の人気が跳ね上がったのもこの流れの中にある。国芳は、その一角にいる。

同じ年に生まれた男

歌川広重と国芳は、同じ年に生まれている。寛政9年、西暦でいえば1797年にあたる。ともに歌川の門から出て、生涯を江戸で過ごし、筆を執った年月もおおよそ重なる。

広重が描いたのは、こういう絵だった。

歌川広重
冨士三十六景 武蔵小金井
1858

桜の古木が画面を縦に断ち、幹の洞の向こうに富士が小さくのぞく。堤に桜が咲き続き、下を玉川上水が流れる。人影は豆粒ほど。仕掛けは洞の一点に絞られ、あとは静かである。

同じ流派、同じ年、まるで違う絵。

当時の江戸には評判記という本があった。料理屋でも役者でも、何が良いとされているかを分野ごとに並べた、いまでいう人気番付である。嘉永6年(1853年)に出た『江戸寿那古細撰記』の浮世絵の項には、三人の名がこう並ぶ。

豊国にかほ 国芳むしや 広重めいしよ

似顔なら豊国、武者なら国芳、名所なら広重。ここでいう豊国は初代ではなく、役者絵と美人画で当代一と言われた三代豊国、すなわち歌川国貞を指す。

後世の研究者がつけた整理ではない。同じ町で絵を買っていた人々が、三人をこう呼び分けていた。

十数年、売れなかった

国芳は江戸・神田の染物屋の子に生まれた。父は柳屋吉右衛門といい、幼名を芳三郎といった。12歳のころに描いた鍾馗の絵が初代豊国の目に留まったと伝わり、文化8年(1811年)、15歳で歌川の門に入る。こうした逸話の多くは、明治の浮世絵研究家・飯島虚心が弟子たちの聞き書きをもとにまとめた『浮世絵師歌川列伝』に拠っている。

ところが、そこからが長かった。世に出たのは文化11年(1814年)ごろとされるが、以後十数年、国芳の名はほとんど表に現れない。20代は不遇のまま過ぎている。

転機は文政10年(1827年)ごろ、31歳のときだった。冒頭の張順は、このとき始まった揃物の一枚である。

中国の小説『水滸伝』に登場する108人の豪傑を、一人ずつ一枚に描いていく。水門をこじ開ける男がいれば、松の木を根ごと引き抜く怪力の破戒僧もいる。いずれも肌に彫物を入れた荒くれで、それまでの浮世絵にいなかった種類の主人公だった。

これが魯智深。酒を食らって暴れ、寺を追われた坊主である。太い腕で松の幹を抱え込み、いままさに引き抜こうとしている。体じゅうの花模様は刺青で、「花和尚」の名はここから来る。

こういう男が108人いる、という売り方だった。

これが当たった。以後、国芳は「武者絵の国芳」と呼ばれる。現存が確認されているのは74図、太田記念美術館は2016年の展覧会でそのうち73点を並べてみせた。

大胆な構図

歌川国芳
宮本武蔵と巨鯨
1848 木版多色刷/大判三枚続

大判の錦絵を三枚並べれば、幅はおよそ75センチになる。そこに鯨が一頭、頭から尾まで収まっている。左端に目、口に朱が一本。右端で尾が跳ね上がる。

問題は、武蔵のほうだ。

主役である。鯨を退治しに来た剣豪である。それが中央の紙の上のほうに、点のように乗っている。うねる波と鯨の体が二辺をなし、武蔵はその頂点に置かれた。

武者絵は、武者を大きく描くものである。国芳はその逆をやった。相手に画面を明け渡し、主役を点景に落とす。

肥前の国——いまの長崎と佐賀のあたり——の海に出た大鯨を、武蔵が刀一本で退治したという伝説による。

歌川国芳
Takiyasha the Witch and the Skeleton Spectre
1844 木版多色摺・大判三枚続

骸骨のほうは、三枚をまたいでいる。右の一枚は肋骨だけで埋まり、頭は画面から外れた。全身を一度に見ることができない。

平将門の娘の話である。

将門は10世紀、関東で朝廷に反旗をひるがえして討たれた。その娘が生き延びる。滝夜叉姫という。

姫は父の御所の廃墟に立てこもり、亡霊から授かった妖術で仲間を集めた。父のやり残した謀反を継ぐためである。

そこへ討伐の武士が乗り込んでくる。姫は妖術で追い返そうとした。

種本は山東京伝の読本だ。原作では、ここで数百体の骸骨が湧き出し、合戦をしてみせる。

国芳は、それを一体にした。

数百を一に減らし、そのぶん際限なく大きくした。屋根より高い骨が、上から覗き込んでくる。

腕はたしかだった

奇想だけの人ではない。描く腕がなければ、この芸当はできない。

忠臣蔵の討ち入りである。ふつうなら刀を構えた男たちを大きく見せる場面を、国芳は建物の絵にしてしまった。屋根と塀が奥へ狭まり、地面に影が落ち、空に月が出ている。浮世絵というより、銅版画の風景を思わせる。

実際、種本があった。ヨハン・ニーホフというオランダ人が、ブラジルや中国を巡った見聞をまとめ、没後に『東西海陸紀行』として刊行された本である。挿絵は銅版画で、これが蘭書の収集家であった石川大浪の没後、国芳の手に渡った。

美術史家の勝原良太は、この本の挿絵が国芳の14作品15箇所に転用されていることを突き止めた。上の夜討之図も、そのうちの一つにあたる。勝原によれば、国芳は挿絵を「克明に写し取りながらも、自己の作品全体の中に転換・消化して、作品をオリジナルなものに高めている」。だから両者の関係は「並べて見ると明らかだが、分離して見ると気づきにくくなる」。

写したと分からないところまで作り変えてある、ということである。

禁令をくぐる

国芳の真骨頂が出るのは、ここからだ。

天保13年(1842年)、水野忠邦の改革が浮世絵を直撃する。役者の似顔絵、禁止。遊女や芸者の絵、禁止。錦絵は三枚続まで、色摺りは7〜8度まで、値段は16文以下。売れ筋をまるごと取り上げられたに等しい。

国芳は、平然と抜け道を探した。

歌川国芳
Katten voor de 53 stations van de Tokaido
1847

東海道五十三次を、猫でやった。宿場の名を朱の枠に置き、その脇に猫を一匹ずつ描いて、かなで駄洒落を添える。丸くなる猫、桶に伏せる猫、手拭いをくわえる猫。人を描けないなら猫を描けばいい、という理屈である。

擬人化と地口。この二つが、国芳の戯画の武器になった。魚に踊らせ、猫で文字を組み、雀に人間の芝居をさせる。禁令は画題を奪ったが、発想までは奪えなかった。

風刺のほうは、もっと際どい。

天保14年(1843年)、病床の源頼光と、その背後に湧き出す妖怪の群れを三枚続に描く。《源頼光公館土蜘作妖怪図》である。四天王の一人が着る衣の紋が、改革を進めた水野忠邦の家紋に似ていた。江戸中が、これを判じ絵として読んだ。

版元は伊場仙といい、この店はいまも日本橋で商いを続けている。同家に伝わる話では、あまりの評判に驚いて絵を回収し、自ら版木を削ってしまったという。そのおかげで咎めは受けずに済んだ。

国芳自身は生涯に何度も奉行所へ呼び出され、罰金を科されたり始末書を書かされたりしている。それでも描くのをやめなかった。取り締まられるたびに、江戸っ子の側は喝采した。

人で人を作る

歌川国芳
みかけはこわいがとんだいい人だ
木版多色摺・大判錦絵

いかつい男の顔である。よく見ると、顔ではない。

眉も鼻も唇も、それぞれ裸の人間の体でできている。手前に突き出した手に至っては、指の一本ずつが人だ。こういう絵を寄せ絵という。

画中にはこうある。大勢の人が寄ってたかって、とんだいい人をこしらえた。とかく人は、人にしてもらわねばいい人にはならぬ。

同じ趣向を思いついた画家が、ヨーロッパにもいた。ジュゼッペ・アルチンボルドである。ミラノに生まれ、ウィーンとプラハで神聖ローマ皇帝の宮廷画家をつとめ、果物や野菜や魚や本を組み合わせて人の顔を作る絵を、1563年から手がけている。

ジュゼッペ・アルチンボルド
ウェルトゥムヌス
1591 油彩・板 70 × 58 cm

仕えていた皇帝ルドルフ2世を、季節と実りの神ウェルトゥムヌスに見立てた肖像である。頬は林檎、鼻は洋梨、顎鬚は栗のいが、髪は葡萄と麦の穂。胸から下は、玉葱と薔薇と唐辛子で埋まっている。

国芳は裸の人間で顔を組み、アルチンボルドは畑の実りで顔を組んだ。やっていることは同じである。

アルチンボルドが世を去ったのは1593年。国芳が生まれる200年以上前のことである。

では国芳は、アルチンボルドを見たのか。

二人を直接結ぶ資料は、いまのところ出ていない。ただし、「遠く離れた二人がたまたま同じことを思いついた」で片づけるのも、それはそれで乱暴だろう。

国芳が蘭書の銅版画から図様を取っていたことは、さきに見たとおりである。そもそも歌川派は、開祖の豊春が浮絵を手がけた一門だった。浮絵は西洋の透視図法を使って奥行きを強調する様式で、享保のころ(1716年から1736年)に奥村政信が始めたとされる。ただし西洋画から直接ではなく、それを取り入れた中国版画の流入を通じて入ってきたものらしい。北斎も広重も、この様式で描いている。

つまり、江戸の絵師にとって西洋渡りの図像は、手の届くところにあった。国芳自身、その手で蘭書を写している。

そういう男が、人の体で人の顔を組む絵を描いた。ヨーロッパに先例があると知っていたのか、知らずに同じ穴を掘り当てたのか。決め手はまだ出ていない。

弟子たち

国芳の門下は大所帯だった。親分肌の人柄が人を集めたと伝えられる。

  • 月岡芳年 ── 武者絵と歴史画。明治18年の浮世絵師の番付では1位に置かれた
  • 落合芳幾 ── 芳年と同門。のちに「東京日日新聞」の創刊に関わり、実際の事件を題材とする新聞錦絵を手がけた
  • 歌川芳虎 ── 11歳で入門。武者絵と役者の大首絵から、開港後は横浜絵・開化絵へ。明治初めの錦絵絵師の番付では2位
  • 歌川芳艶 ── 武者絵
  • 歌川芳藤 ── 子ども向けのおもちゃ絵を数多く手がけた

のちに画鬼と呼ばれる河鍋暁斎も、一時期この画室に身を置いている。

新版画まで届く

国芳から伸びた線は、直弟子の代では終わらなかった。

月岡芳年の門に13歳で入ったのが水野年方。年方の門下から鏑木清方が出て、清方の門下から伊東深水と川瀬巴水が出る。国立国会図書館の電子展示は、この連なりを「年方から清方、深水・巴水へと近代日本画の一つの流れを作っている」とまとめている。

深水と巴水が担い手となったのが、大正から昭和にかけての新版画である。絵を描く絵師、版木を彫る彫師、紙に摺る摺師という江戸以来の分業をそのまま用いながら、画題と表現を近代のものへ入れ替えた運動だった。

国芳が神田の染物屋の子として歌川の門を叩いてから、ここまで四代。百年あまりが経っている。

世を去るまで

国芳がこの世を去ったのは文久元年3月5日、西暦に直せば1861年4月14日のことである。ペリーが浦賀に来てから8年、江戸が東京と改まる7年前にあたる。

生年が1797年とも1798年とも記されるのは、生まれた日が寛政9年11月15日で、西暦に直すと1798年1月1日にあたるからだ。旧暦の年で数えるか、西暦の日付で数えるか、それだけの違いであり、どちらも誤りではない。

もっと深く知りたい向きには、研究の第一人者である岩切友里子の仕事がある。没後150年の大回顧展を監修し、岩波新書『国芳』も書いている。

歌川国芳

Utagawa Kuniyoshi

1798–1861

出典

  • 辻惟雄『奇想の系譜』1970年
  • 東京都美術館「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」の解説、2019年
  • 山東京伝『善知安方忠義伝』文化3年(1806年)
  • 飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』
  • 『日本大百科全書』「歌川国芳」
  • 東京富士美術館・太田記念美術館・静岡市東海道広重美術館・東京都立図書館の各解説
  • 国立国会図書館 電子展示「明治の画家、水野年方って?」
  • 版元・伊場仙に伝わる記述
  • 勝原良太「国芳の洋風版画と蘭書『東西海陸紀行』の図像」『日本研究』34、2007年
  • 「浮絵」の一般的な解説
  • 各図版を所蔵する機関の記録

注

  • 《相馬の古内裏》の種本は山東京伝『善知安方忠義伝』。
  • 洋風表現と蘭書の関係は、勝原良太の論文による。
  • 制作年は各図版を所蔵する機関の記録に従った。
  • 図版はシカゴ美術館・クリーヴランド美術館(ともにCC0)、アムステルダム国立美術館、スコークロステル城(Google Arts & Culture 提供)、国立国会図書館デジタルコレクション、大英博物館所蔵本による Wikimedia Commons の公開画像から。

Images

  • 歌川国芳《Rori Hakucho Chojun (, from the series 108 Heroes of the Novel Shui Hu Chuan)》 — CC0 / Wikimedia CommonsSource
  • 歌川広重《冨士三十六景 武蔵小金井》 — Public domain / Wikimedia Commons, National Diet Library Digital Collections: Persistent ID 1303335Source
  • 歌川国芳《Lu Zhishen, Originally Named Lu Da (Kaosho Rochishin shomei Rotatsu), from the series "One Hundred and Eight Heroes of the Popular Water Margin (Tsuzoku Suikoden goketsu hyakuhachinin no hitori)"》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Purchased with funds provided by Mrs. Daniel GreenSource
  • 歌川国芳《宮本武蔵と巨鯨》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
  • 歌川国芳《Takiyasha the Witch and the Skeleton Spectre》 — Public domain / British Museum, London (1915,0823,0.915-916)Source
  • 歌川国芳《Act 11: The Night Attack (Juichidanme, youchi no zu), from the series "Treasury of Loyal Retainers (Chushingura)"》 — CC0 / Art Institute of Chicago, Kate S. Buckingham EndowmentSource
  • 歌川国芳《Katten voor de 53 stations van de Tokaido》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
  • 歌川国芳《みかけはこわいがとんだいい人だ》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource
  • ジュゼッペ・アルチンボルド《ウェルトゥムヌス》 — Public domain / Wikimedia CommonsSource